広い――。
具体的に言えば、100層から成る天空に浮かぶ鋼鉄の城――その第22層に今も残るログハウスの、部屋の仕切りを全て取り払ったくらいの広さ。奥にも扉らしきものがいくつか見えるため、そちらも含めればもっと広いのだろう。そんな場所に、俺は一人ぽつんと立っていた。
――いや、一人ではない。確かに立っているのは俺だけだが、視線の先には二人の人影がある。
黒い、けれど決して地味ではなく、装飾が幾らか施され、どことなく豪華さを感じさせるジャケットを羽織った少年。隣では、白地にやはり幾らか装飾が施されたジャケットを着ている少女。顔は――ぼやけて見えない。俺は彼らを知っているような気がするが、知らないような気もする。
そんな彼らは、その服装とは打って変わって、茶色の木目のシンプルな……悪く言えば地味なダイニングチェアに向かい合うように座り、その間にあるダイニングテーブル上に置かれた何かを見ながら、あるいは指差しながら談笑し、時折それらを口に運んでいる。
『んまい! さすが――だな』
『ふふ、ありがと。ずっと……にいるから、たまには……もいいかなって。あ、こっちは……で、こっち……』
俺と彼らの距離は二メートルほどしか離れていないのに、聞こえてくる会話は度々走るノイズに掻き消され、断片的なものしか耳に届かない。まるで電波状況の悪い、一昔二昔前のラジオでも聞いているかのようだ。
それでも、いくつか解ることがある。机上には赤っぽいもの、白っぽいもの、緑っぽいものetc……といくつかの色があるが、口に含んでいることから、それらが全て食べ物であるということ。そしておそらく、少女の手作りの品であるということ。匂いも味も解らないが、きっとどこの料理よりも美味しいのだろう、と無意識に思った。
――そう言えば、腹減ったなあ……。
そんなことを思った途端、視界がぐにゃりと歪んだ。突然のことに驚き、足を踏み出そうとするが一歩も動かず、咄嗟に腕を伸ばすもその先の二人は変わらず楽しそうにしていて、そのまま渦の中へ呑み込まれて行く。
辺りが真っ白な光に包まれ、俺を含めた全てのものをその中へ取り込んだ。
「……とくん、ねえ、キリトくんってば」
天使の歌声を彷彿とさせる軽やかなソプラノが聞こえ、おずおずと目を開ける。隙間に白っぽい光が入り込み、その中心に丸い影が見えた。
眩しさに何度か瞼をぱちぱちさせると、影だったものがはっきりと見えてくる。
卵型の顔に、控えめな、けれど筋の通った鼻、大きなはしばみ色の瞳に、薄い桜色の唇。顔の横に流れる栗色の髪はさらさらとしていて、五月のそよ風に優しく揺れる。その度によく知った匂いが仄かに香り、安らぎだけが与えられた。
「明日奈……?」
「もう、まだ寝ぼけてるの? お昼食べる時間なくなっちゃうよ?」
「ひる……」
脳の起動シークエンス真っ最中な俺に、明日奈はふーっと呆れの混ざった溜息を吐いた。
「お腹、空いてないの?」
「腹…………空いてる!」
ベンチに横たえていた体をがばっと起き上がらせ、素早く左半分の方へ座る。背中をぴんと伸ばし待ての状態にある俺を見て、明日奈はくすくすと肩を揺らす。
「ふふ、もう……」
「仕方ないなあ」とでも言いたげに微笑むと、ベンチの右半分の方へ腰を下ろした。その動作に合わせ、着ている淡い黄緑色のロングスカートがふわりと揺れる。手に持っていたバスケットを、そっと膝の上に乗せる――。そんな動き一つ一つが、《大学生》になったことによって今まで以上に大人っぽく見えるような気がした。
この春、晴れて大学生となった俺たちは、《帰還者学校》へ通っていた頃のように都合のつく日は一緒に昼飯を食べている。大学の敷地内には各所にベンチが設置されており外でも食事が取れるので、いつも天気の良い日は外で食べていた。
今日は明日奈が講義で遅れると聞いていたため先に来ていたのだが、この陽気のおかげで眠気に襲われ、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。眠っている間、なんだかとても気になる夢を見ていたような気がするが、思い出そうとしてももやがかかったようになっていて、最後にお腹が空いたなあと思ったことくらいしか思い出せない。
――何か、大事なことを忘れているような……。
「キリトくん?」
とんとんと肩を叩かれた気配がして思考を中断。横を見ると、不思議そうな色でこちらを見る彼女の姿があった。
「あ、ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
すると明日奈は眉間にシワを寄せ、ぐいっとこちらに顔を近付けた。突然色濃くなった優しい香りに、思わずドキリとする。
「ほんとに? 難しい顔してたよ」
「ほ、ほんとだって。さっき少しだけ夢を見てたんだけど、何の夢だったかさっぱり思い出せなくてさ。どうせくだらない夢だったんだよ、きっと」
「何もないならいいんだけど……。キリトくん、すぐ一人で抱え込んじゃうから」
徐々にボリュームダウンする声が、胸にチクリと刺さる。過去に心当たりがないわけではない……むしろ大いにあるため、日頃の行いのせいだよなあと内心自嘲し、俯く彼女を安心させるように、右手をぽんと栗色の頭に乗せた。
「大丈夫だよ、何かあればちゃんと言うから」
明日奈はどこか納得のいかない表情をしていたが、すぐに諦めたように息を吐き、微笑みに変わった。頭に乗せたままの俺の右手を取り、胸の前でぎゅっと握る。
「そうだね、キリトくんだもん。……信じてるよ、何かあったらちゃんと話してくれるって」
きらきらと輝くヘイゼルの瞳に頷き、言葉で返す代わりに握られた手に力を籠めると、満足そうににこりと笑った。
「遅くなっちゃってごめんね。お昼にしよっか」
明日奈お手製のてりやきソースで味付けされたハンバーガーと、程よい甘さのベイクドチーズケーキを平らげ、満腹になった腹を擦る。いつもてりやきソースには細かく刻まれた玉ねぎが入っているのだが、今日はたけのこも一緒に入っていた。シェフ曰く、「たまには旬の野菜を入れてみたかったんだ〜」とのこと。
その季節の旬の野菜を食べることには意味がある、とどこかで聞いたことがある。例えば、夏の野菜であるきゅうりにはカリウムが豊富に含まれており、体の熱を放出してくれる効果があるという。熱が溜まり夏バテしやすい季節にはもってこいというわけだ。残念ながら今回のたけのこについては知識がないが、明日奈のことだからその辺りも把握した上で選んでいるに違いない。
後で訊いてみようと頭の片隅にメモし、ふと、家に大量にある《春野菜》のことを思い出した。カップに入れられたお茶をぐいっと飲み干し、隣で同じものを飲んでいる明日奈に声を掛ける。
「そういえば、明日はうち来るんだろ?」
「うん。いつも通り、お昼も一緒に食べるつもりだよ」
「昼飯作るとき、使ってほしい材料があるんだ」
ニヤリとする俺に、明日奈は《?》マークを頭上に出しながら小首を傾げた。
翌日――。
事前に伝えてはいたものの予想外の量だったらしく、明日奈は驚きの声を上げた。
「わあ、こんなにたくさん! どうしたのこれ?」
「ああ、この前実家からスグが送ってきたんだ。近所の人に貰ったんだけど、あまりにも多いからって。少しずつ使ってはいたんだけど、さすがに一人じゃ限界があってさ」
ビニール袋に入れられた緑色の春野菜――アスパラガスに、明日奈は目を丸くした。中には白色のアスパラガスも数本含まれていたが、俺には調理方法がさっぱり解らず、緑色の方ばかりをしばらく一人で消費していた。それでも本数はなかなか減らず、週末明日奈が来たら調理してもらおうと考えていたのだ。
明日奈はおとがいに指先を当てながら、「うーん」と少々困ったように唸っている。
「こんなに使い切れるか解らないよ?」
「全部じゃなくてもいいよ。悪くなる前に少しでも減れば、あとはなんとかするからさ」
「そう? ……ところで、いつも何にして食べてたの? 炒め物とか?」
興味津々に訊ねてくる明日奈からそろーっと視線を横に逸らし、やや気まずいながらも答える。
「えっと……茹でて、マヨネーズつけて、そのままがぶりと……」
「……そうよね、キリトくんだものね……」
やや呆れ顔でそう言うも、
「よし! ご飯すぐ作るから、座って待っててね」
と、明日奈はキッチンの棚に仕舞われている薄桃色のエプロンを取り出し、慣れた手つきでそれを身に着けた。これまた自分の家かのように、必要な調理器具を次々取り出して行く。
その様子を見守りながら、俺はすぐ近くにあるダイニングチェアへ腰を下ろした。
大学が実家からやや離れていたため、俺は大学進学と共に小さなワンルームのアパートで一人暮らしを始めた。当初は明日奈も一緒に引っ越して来ると言い張っていたが、実家から通える距離にいるのに無理することないと説得し、やや不満そうではあるが今も世田谷の家から通学している。
埼玉県川越市にある実家でもある程度の家事はしていたためそこまで家のことで苦労はなかったが、やはり一人で食事となると手抜きになってしまい、三日連続でパスタだったり、更に面倒になるとカップ麺で済ませてしまったり、挙句の果てに、調べ物や勉強に熱中していると食事すら忘れてしまったり。大学で講義がある日の昼食はいつも明日奈が作ってくれるため問題ないが、家で食べるものがそんなものばかりでは当然栄養も偏る。
入学して二週間経った頃それが明日奈にバレ、週末にはこうして俺の家で昼食を作ってくれるようになった。当然、自分で作る飯より明日奈が作ってくれた方が格別に美味いことは間違いないので、願ったり叶ったりなのだが。
――結婚したら、毎日こんな光景が見れるのかな。
背をこちらに向け料理している明日奈を見て、そんなことを思う。今日に限らず来てくれたときには毎回そんなことを考え、束ねられた栗色の髪が楽しそうに揺れるのを眺めることが習慣になりつつある。
一度、あまりに触れたくなり料理中に背中から抱き締めたことがあった。もちろん、「危ないからダメ!」としっかりお叱りを受け、以来大人しくしているのだが、後ろで揺れる髪のせいか、あるいはあまり見ることの無い項がちらちらと覗くせいか、その背中を見ていると腕の中に収めておきたくなる。
うずうずしながらじっと見ていると、ふと、明日奈の後ろ姿が何かと重なったような気がした。
慌てて目を擦るが、クリーム色のワンピースを着た彼女がいるだけ。瞬きを繰り返しても、結果は同じだった。きっと疲れでも出たのだろうと無理矢理納得し、再び華奢な背中を眺める。
狭い部屋の中に漂い始めた香ばしい香りに、腹の虫が鳴いた。
「おお……!」
「えへへ、ちょっと作りすぎちゃった」
二人掛けの小さなダイニングテーブルに並べられた、数々のアスパラ料理。各々その緑色がとても映え、それだけでも春らしさを感じる。
「アスパラとキャベツのぺペロンチーノと、アスパラのベーコン巻き。あと、アスパラとニンジンとレタスのサラダ。サラダの方には、グリーンアスパラとホワイトアスパラどっちも入れてみたの。さすがに、コンソメスープには入れなかったけどね」
……白い方も普通に使っていいのか。
などとくだらない感想を胸の裡でひとりごちながら、改めて並べられた料理たちを眺める。スープ以外全てにアスパラが入っているという、普段の明日奈なら考えられないほど偏りのあるメニューだ。それでも、肉や他のものが全くないわけではないのだから、さすが、《SAO》で《料理》スキルを[[rb:完全習得 > コンプリート]]していただけのことはある。名付けるのであれば、《アスパラフルコース》といったところだろうか。
「よくこんなに作れたな。袋に残ってるのもあと少しだろ?」
「うん。なるべくたくさん使えるように、ちょっとだけ頑張ってみました。あ! 多めに作って、残ったのは冷蔵庫に仕舞ってあるから、後で食べてね」
「サンキュー、助かるよ」
「どういたしまして。冷めないうちに食べましょ」
「おう」
「いただきます」と声を揃え両手を合わせる。置かれた銀色のフォークを取り、目の前のパスタをくるくる巻いてから、口へ運んだ。
瞬間。
「んまい!」
思わず叫び、もう一口。今度はアスパラベーコンをぷすりとし、再びそれを口へ運ぶ。カリッと焼かれたベーコンのしょっぱさと、シャキッとした食感をほんのり残したアスパラの甘さが上品に口内に広がり、食欲がそそられる。そしてふわりと香ったこれは……。
「なあ、レモンっぽい匂いがしたんだけど、もしかして入ってたりします……?」
「ふふ、当たり。レモンハーブが家にあったから使ってみたの。塩こしょうだけでも十分美味しくなるとは思うんだけど、もう少し違ったテイストを試してもいいかなって」
「たしかに、こういう味のベーコン巻きは今まで食べたことないかもな」
言いながら、再びベーコンに巻かれたアスパラを口に運んだ。
「気に入ってもらえて良かったあ」
嬉しそうに微笑む明日奈に、俺の緩んだ頬が更にだらしなく緩む。何度も見ている表情だが毎回少しずつ違うように感じて、その瞬間を逃すまいとその笑顔に見入ってしまう。
数秒間だけ笑顔を目に焼付け、今度はサラダへと手を伸ばした。アスパラ二種類だけでなく、レタス、ミニトマト、パプリカ、千切りされたニンジンが盛り付けられ、彩りを豊かにしている。見ているだけでも食欲がそそられそうだ。
フォークの先に刺した白いアスパラを口に入れると、食べ慣れないドレッシングの味が口に広がった。
「ん……? このドレッシングって家にあるやつじゃないよな?」
「うん、この前家でドレッシングを色々作ってみたんだけど、そのうちの一つだよ。……味、どうかな?」
やや不安そうにこちらを見るヘイゼルの瞳に、にこりと笑いかける。
「ああ、美味いよ。さすがは明日奈だな」
「ふふ、ありがと。大学に入学してからはしばらくバタバタしてたから、ドレッシングまで作ってる余裕なかったんだけど、この前ちょっとだけ時間ができたからたまにはいいかなーって。白ワイン酢っていうお酢があって、初めて使ってみたからちょっと心配だったの。一応味見もしたんだけど、口に合ったなら良かった~」
先ほどの表情から一転。明日奈は胸を撫で下ろし、花が咲いたような笑みを浮かべた。可愛いのはもちろんだが、どちらかと言えば綺麗と表現したくなる笑顔にどきりとする。ぎゅっと胸が締め付けられるような感覚に襲われ、何年経っても慣れないなあなんて思っていると。
突然、明日奈が音を立てながら椅子から立ち上がり、テーブルの横を回ってやけに真剣な表情で俺の方へ向かってきた。
「明日奈……?」
どうしたんだ? と問うより先に。
「キリトくん、どうしたの……!?」
「え……?」
明日奈は視線を合わせるべく腰を屈めると、白い手をこちらへ伸ばし、俺の目元に触れる。ヘイゼルの瞳に映る顔を見て、そこで初めて自分が泣いていることに気付いた。自覚したと同時に、次々と熱いものが頬を伝う。
「……ごめん…………なんとなく、懐かしいような気がしたんだ」
「……」
明日奈の手料理が不味かったとか、突然腹痛に襲われたとか、決してそういうわけではない。ただ、作ってもらった料理を口にして、明日奈の笑顔を見ていたら急に胸が苦しくなり、わけもわからない懐かしさと寂しさの波が押し寄せた。
数は多くないが、《帰還者学校》へ通っていた頃も何度か同じようなことがあった。初めてのことを懐かしいと思ったり、明日奈の姿が何かと重なりとてつもない焦燥感や寂しさを覚えたり。俺だけがそう感じたり、明日奈だけが感じたり。かと思えば、二人同時に感じることもあった。場所もバラバラで初めの頃は戸惑いもしたが、後に《UWでの経験》が関わっているのではないか、というAIであり娘でもあるユイの見解が出た。もっとも、それが絶対とは言い切れないが。
UW大戦を終え、その後加速された時間の中で俺と明日奈は二百年の時を過ごした。二百年の記憶は現実世界に帰還した際に全てデリートされたはずだが、どこかに深く刻まれているかのように、ふとした瞬間心が震え出す。このことが嫌だとは思わないが、一体どんな経験をして、どうやってあの世界を発展させたのだろう……と気になることがある。
けれど、どうやっても思い出すことはできないし、俺たちが《王と王妃》として行ったことはUW中に知れ渡っていても、プライベートなことまでは誰も知らない。
もう二度と戻ることのない記憶――。そう思うと喪失感を覚えそうになるが、比嘉さんに消去するよう指示したのは誰でもない俺自身のはず。本来の桐ヶ谷和人としての時間を考えれば、当然削除しなければ悪影響は出るだろうし、それが最善策だと思う。ただ、そうあっさりと削除を申し出たのだとしたら、それは…………。
「キリトくん」
俺の思考を遮るかのように、明日奈が動いた。柔らかなものが一瞬だけ俺の唇に触れ、ゆっくりと離れる。
目の前にある彼女の表情はこれ以上にないほど穏やかで、はしばみ色の瞳には全てを包み込むかのような温かさが滲んでいる。そこだけ時間の流れが違うかのような、ゆったりとした空気が二人の間に流れ込む。
「……わたしね、今のキリトくんみたいになったときにいつも思うの。懐かしいとか、寂しいとか思えるのだとしたら、きっとあの世界ではすごく幸せで、充実してたんじゃないかって」
そっと色白の瞼を閉じ、その先の言葉を紡ぐ。
「もちろん、大変なこともたくさんあったと思う。でも、良かったって思えてなかったら、きっと懐かしいだけじゃ済まないと思うもの」
明日奈はほわんほわんと微笑むと、俺の頭に手を回しそのまま抱き寄せた。華奢な手のひらが、そっと俺の頭を撫でる。服越しに明日奈の心音が伝わり、激しく波打っていた自分の気持ちが徐々に落ち着いて行く。
全てではないのだろうが、UWで経験したことと似たようなことが現実で起きた場合に、それがトリガーとなって胸中に様々な感情が湧き上がると考えられる。今回もきっとそれで、トリガーが明日奈の作ったアスパラフルコースなのか、それともお手製ドレッシングだったのかは定かではない。
けれど、彼女が作ったものがきっかけになっていたことは間違いないはずで、この推測が正しいのであれば、UWでも明日奈の手料理……それもアスパラに関係するものを食べていたのかもしれない。その手料理がどんなものだったのか、味は(もちろん美味しいに決まっているが)どうたったのか――それすら解らないことは悔やまれるが、不思議と《戻りたい》と思うことはなかった。
だから、きっと二百年を過ごした《俺たち》は反省することはあっても、後悔することなく自分たちの信じた道をひたすらに走り、あの世界のため、そしてお互いのために全力を尽くしてきたのだろうと思う。
記憶を持たない俺に、明確な根拠があるわけではない。けれど、だからこそ想像して、そんな臆測を立てることができる。自分がもしその立場にあったらきっとそうするだろうし、あの時に戻れたら……なんて考えたりはしないだろう。
――明日奈のおかげ……だな。
迷いは、もう無かった。
俺は明日奈の背を軽く叩き距離を取るよう促すと、椅子から立ち上がり、身長差が出始めた華奢な体へ今度は自分から腕を回した。
明日奈は腕の中で一瞬だけピクリとしたが、すぐに俺に擦り寄り、俺の背中に両手が触れた。そんな些細なことすら愛おしく、腕の中の温もりを更に抱き締める。
「……じゃあ、俺たちは俺たちの思い出をいっぱい作らないとだな」
「うん。でも、わたしはキリトくんと一緒ならそれだけで十分だよ。いま、この瞬間だって大切な思い出だもの」
「……そうだな。俺も……」
明日奈とこうして温もりを分け合える時間はとても大事で、かけがえのないものの一つだ。
言葉にはせず、けれどそんな気持ちを籠めて、栗色の頭にキスを落とす。そのまま髪に手櫛を通すと、明日奈は気持ち良さそうに小さく息を吐き、小さな掌がゆっくりと俺の背中を撫でた。それにより自然と自分の体から力が抜け、途端、触れている場所から明日奈の気持ちが溶け出し、ゆっくりと裡に注ぎ込まれているかのような不思議な感覚に囚われる。
だいじょうぶだよ。
わたしはずっと、キリトくんの隣にいるよ。
大好きです。
……ただ抱きしめ合っているだけなのに、なぜか明日奈がそう言っているような気がした。むず痒くなるような、くすぐったいような気持ちが体中を巡る。
けれど、やはりそれをうまく言葉にすることはできず、再び彼女を閉じ込めた腕に力を籠めた。
『んまい! さすがアスナだな』
『ふふ、ありがと。ずっとUW(こっち)にいるから、たまにはちょっとだけ現実(むこう)の懐かしい料理もいいかなって。あ、こっちはアスパラと鮭のクリームパスタで、こっちはミニトマトとアスパラとレタスのサラダで……』
end
キリアスパラアンソロジー 初出