広い肩に添えた手が僅かに震える。きっと彼にも伝わっているだろうけれど、特に動きはない。ただただ、わたしが動くのを待っている。
――ごくり。
変な緊張を取り除くために飲み込んだ唾の音がやけに響いた。
普段は二十センチ以上上に見える端正な顔がわたしの目の前にあって、鋭い鈍色の瞳は瞼の奥に隠されている。……そんな状況で、緊張するなという方が無理だろう。
――思い返せば、きっかけは些細なことだった。
学校で美綴綾子が読んでいた雑誌を何気なく覗いたところ、〝脱! 恋人とのマンネリ化!〟なんて見出しが。それもやけに主張するようにでかでかと載っていたものだから、つい視線が釘付けになってしまったのだ。
アーチャーとの関係がマンネリ化しているとはとても思えないが、そういった話は校内でも耳にするし、いつかそういう時がくる可能性もある。だからそのための勉強だ――と言いながら、半分以上はただの興味だったりするのだけれど。
ともかく、そんな経緯で覗き見た特集に書かれていた中の対策に、〝時々いつもと違うことをする〟と書かれていたのだ。例えば、変わった料理を作るとか、マッサージをするとか、プレゼントを渡すとか。
料理はまず論外だ。わたしが何を作ったところで彼の味には敵わないことを知っているのに、そんなもので挑めるわけがない。
マッサージもなし。サーヴァントが肩凝りとか絶対有り得ないし、もしあったとしてもアイツの肩を揉むのはわたしじゃ大変そうだ。
プレゼントはまだ現実的だが、彼の欲しい物なんて家電や台所用品ばかりだろうし、それではわたしが選びようがない。それ以外で、と考えたところで、彼が何を欲しいのかなんて思いつかず。
――それで結局、これからわたしがやろうとしていることに辿り着いたのだ。
「……凛、ソファに座って目を閉じろと言われてからもう五分以上経っているのだが」
「う、うるさい! いいからそのまま、じっとしてて」
つい語気を強めながらそう言えば、アーチャーは目を閉じたまま、やや不機嫌そうに眉を寄せた。
思えば、こういうことはいつも彼からだった。だからどれだけ頭の中でシミュレーションしていても、いざ行動に移そうと思うと、体が凍り付いてしまったように動けなくなる。
しかしいくら慣れないからといって、こんなことでは言い出した意味がない。落ち着きなさい遠坂凛。これくらい、どうってコトないわ。
小さく深呼吸して、よし、と気合いを入れる。そうして微動だにしないアーチャーへゆっくりと顔を寄せ、浅黒い頬へ唇で一瞬だけ触れてすぐに離れた。
彼の両肩に添えた手は最初よりも震えている。すぐに離れればいいのに、わたしの両手は言うことを聞いてくれない。
どうだろうかとアーチャーの様子をそのままじっと見ていると、やがてそっと瞼が開かれ鋼色の双眸が覗いた。
「…………」
「…………」
男は顔色を変えないまま、ただ黙ってわたしの顔をまじまじと見つめている。薄灰の瞳には真っ赤になった自分の顔が映っていて、途端に悔しさと羞恥心でいっぱいになった。
「な……何か言いなさいよ……っ」
沈黙に耐え切れず、わたしはふいっと顔を逸らす。
「ああ、もう終わりかね?」
「あ、アンタねぇ……! ひとがせっかく勇気出したってのに、言うに事欠いてそれ!?」
反射的に再びアーチャーの方へ顔を向ける。何か言えとは言ったけれど、そんな素っ気ない言葉が飛び出してくるとは思わなかった。ああもう、わたしのこの緊張と時間を返して欲しい。
「いや、もう少し何かあるのかと思っていたのだが、存外あっさり終わってしまったのでね。なるほど、やはり可愛らしいな、君は」
「うぅ……すぐそういうコト言うんだから……」
というか、やっぱりわたしがしたいことが何なのか気付いていたらしい。ニヤリと笑いながらどこか試すようにこちらを見つめてくる。
「いや、すまない。君が何をしようとしているのかおおよそ見当はついていたが……嬉しいよ、凛」
「――っ!」
ふわりと。外では見せない甘い笑み。わたしだけが知っている表情を見せられて、心臓がドクンと音を立てた。悔しいことに、こんな顔を見せられては敵う筈もなく。わたしは熱くなった顔を隠すこともできず、真っ直ぐにアーチャーを見つめたまま黒いシャツを掴んだ。
「ところで凛、口付けをする場所で意味が変わることは知っているかね?」
「え?……知ってるけど、それぞれの意味まではさすがに覚えてないわよ」
突然何を言い出すのかと小首を傾げた途端、太い両腕がわたしの背中に回り、そのまま引き寄せられた。
「きゃっ」
「凛が先ほど私にしてくれたここは〝親愛〟」
言いながら、頬に一瞬だけ柔らかい感触が触れた。驚いて身を引きそうになったが、アーチャーの両腕がそれを許さない。
「額は〝祝福〟」
無骨な指先がわたしの前髪をそっと梳いて、言葉を紡いだ唇がそこへ落ちる。ムスクの香りが鼻腔をくすぐって、少し方の力が抜けた。――けれど、それも束の間。
「髪は〝思慕〟」
わたしの頬を通って降りてきた手が肩に流れる黒髪を一房掴んで、そっと目を伏せながら彼の口元へ。アーチャーは普段からよくそうしているのに、これほど間近に見ることはないため少し恥ずかしい。
「掌は〝懇願〟」
「っ!」
彼の肩を掴んだままだった左手を剥がされ、掌へキスをされた。これまでこんなところにされたことなんてなく、くすぐったさに声が漏れそうになる。目を細めるアーチャーの顔にいつかの夜を思い出して、一気に顔へ熱が集まった。
「瞼は〝憧れ〟」
一瞬で近付いた彼の顔。咄嗟にぎゅっと目を閉じれば、その上へふわりと唇が触れる。それが離れてからそろりと瞼を持ち上げると、眩しいものでも見るかのようなアーチャーの双眸がそこにあった。
それになぜか胸が締め付けられそうになっていると、次の瞬間には男の表情が一転。ニヤリと口元を歪めながらわたしの耳元へ手を伸ばし、髪をさらりと横に流しながら顔を近付けた。
「耳は〝誘惑〟」
「ひゃんっ!」
掠れ声でそんな囁きを零し、わたしの耳たぶを食んだ。抜けていた肩の力が再び戻ってきて、ぞくりと体が痺れそうになる。
そんなわたしの様子を楽しんでいるのか、アーチャーは口元に笑みを残したまま、大きな掌でわたしの頬をそっと包んだ。僅かに輪郭を傾けられ、その先にあるものを直感し目を閉じる。
「唇は――〝愛情〟」
「んっ……」
唇と唇が触れ合う。もう何度もこうして口付けしている筈なのに、わたしの心拍数はいつも上昇していく。いつかもう少し落ち着ける時が来るのだろうかとも思うが、それは当分先の話になりそうだ。
他より少し長めに唇同士を押し付けてから、ゆっくりと顔が離れた。止めていた息を吐いてからアーチャーに視線を向けると、僅かに熱を灯した薄灰の瞳があった。
わたしの頬をそっと撫でながら、眼前の男はふ、と笑みを零す。
「――君は、どこにされるのが好きだ?」
「そんなの……解らないわよ。だって、アーチャーにしてもらうところ、全部好き、だもの……」
どこだろうとアーチャーにキスされただけで心臓が大きな音を立てて、わたしの思考を麻痺させてしまう。ただただ、彼がわたしを想ってくれる気持ちが流れてきて、それに満たされてしまうのだ。
さっきまでだって、彼の唇を追うのに必死で意味なんてほとんど頭に入ってこなかったのだから。
とん、と頭を目の前の肩へ押し付ける。なんだか恥ずかしくなって、これ以上顔を見られたくなかった。
「……凛、ならば、他も試すか?」
「他って、他のところにも意味があるの?」
「ああ。せっかくの機会だし、知っている場所全て教えようと思うのだが」
言いながら、アーチャーはぎゅっとわたしの体を抱きしめた。
――これは誘いだ。このまま、この先へ進むかどうかの。
それに気付いた瞬間、わたしの体温が二度ほど上昇。けれどこのまま引き返す、なんて選択肢を今のわたしは持ち合わせておらず。
こくりと小さく頷くと、耳元でアーチャーが小さく笑ったような気がした。
end
2021.05.26 初出