MTBを飛ばしてきた勢いそのままに、俺は病院へ駆け込んだ。
目を丸くする受付の女性からカードキーを受け取り、首に掛ける時間すら惜しく握り締めたまま最上階行きのエレベーターへ。
最新式のエレベーターは音も無く動くため、デジタル数字が刻む数字が本当に合っているのか、実は数字だけが数を刻みエレベーター自体は止まっているんじゃないか、と、わけの解らないことを考え始めたところで、最上階に着いたことを知らせる音が響いた。
エレベーターの扉が最後まで開ききる前に、身体を隙間へ滑らせる。さすがに病院の廊下で走るわけにもいかず、けれどなるべく早足で廊下を進み、曲がり、更に進み、一つの扉の前で急制動。カードキーをネームプレートのスリットに素早く通し、やや雑に扉を開け中へ飛び込んだ。
「明日奈、ごめん遅くなった!」
「わ! びっくりしたー……。こんにちは、キリトくん。そんなに慌てなくてもいいのに」
ベッドの端に腰かけながら、明日奈が苦笑する。読んでいたらしい参考書をぱたりと閉じ、机上に置いた。
「いや、とっくにリハビリの時間終わってたし……、その……時間が短くなっちゃうし……」
何が、とは言わなかったが、栗色の髪を持つ少女は瞬時に理解したらしい。顔を真っ赤にして、「そう、だね……わたしも、ちょっと寂しい……」という声が聞こえた。
「でも、事故とかじゃなくて良かった……。いつも来る時間に来ないから、ちょっと心配してたの」
「う……ごめん……」
俺が隣へ座ると、二人分の重さを乗せたベッドが、きぃ、とわずかに鳴いた。それを合図とするかのように、明日奈の頭が俺の方に傾く。不安そうに擦り寄る頭にそっと左手を乗せ、絹のように艶々とした髪をそっと梳いた。
ふと時計を見上げると、時刻は十五時を回ったところ。とにかくここに来るために必死になっていたため時間もよく見ていなかったが、明日奈がリハビリを終えてから一時間以上が経過している。これでは明日奈が心配するのも無理はない。申し訳なさ半分、可愛いなと思う気持ち半分で、何度も何度も左手を動かした。
「ところで、今日はどうしたの? 本当に事故とかじゃないよね?」
「だ、大丈夫だって。えーっと……」
俺はボディバッグに入れてきた、今日の遅刻の理由でもあるそれを慌てて取り出す。
「明日奈、その……これ……」
俺が差し出したのは、薄桃色のラッピングされた掌に乗るサイズの紙袋。そこへ、不思議そうな顔をした明日奈の手が伸ばされる。
「どうしたの、これ?」
「えっと……今日、ホワイトデーだから……その、プレゼント、です……」
ヘイゼルの瞳が一瞬だけ驚きに見開かれ、そっと紙袋を開けた。それまでの間は数秒もなかったはずなのに、慣れないことをしている緊張感のせいか、何倍にも引き延ばされたような感覚に陥った。なんとなく落ち着かず、手を握っては開き、開いては握ってみる。
そうしている間に中から取り出されたのは、小さくて透明な袋。その中にあるものが、今回のプレゼント。窓から射す陽光に照らされて、一瞬だけそれがきらりと光る。
「わあ……っ! 可愛い……ありがとう、キリトくん」
「ど、どういたしまして……」
ホワイトデー。祝日でもなんでもないが、巷では恋人たちのイベントの一つとして数えられているものだ。俺にとっては、これまで全く縁のなかった行事でもある。
遅れてきた理由は、そのホワイトデーのプレゼントを何にしようかと一週間以上悩みに悩み、そして今日まで――正確にはここに来る直前まで――決まらなかったからだ。異性にきちんとしたプレゼントを渡すなんて、今まで母親や妹の直葉にしかしたことがない。
今回は家族以外の誰か、しかも彼女に渡す初めてのプレゼントなのだ。何がいいのかとネットでも散々調べた。けれどホワイトデーというと、やはりバレンタインデーのお返しということでお菓子が主流のようで、出てくるのはマシュマロ、キャンディ、チョコなどなど。もちろん食べ物でもいいのだろうが、まだ入院中の明日奈にチョコはどうかと思うし、最近は差し入れを持ってきているため普段とあまり代わり映えしないようにも思えたため、すぐに選択肢から除外。
現在俺の部屋のPCを家とし、AIであり娘でもあるユイに相談したところ、『パパが考えてプレゼントしたものなら、ママはきっと何でも喜びます!』と言われてしまった。仕方なく妹の直葉にも相談し、色々と候補を挙げてもらったものの『最終的にはお兄ちゃんがちゃんと決めたほうがいいよ』と返され結局決まらず。
候補はいくつかに絞れたが、もうすぐ高校生になる思春期男子が女性の集まるおしゃれなお店に行くのもなかなか勇気がいる。人が少ない時間帯を狙って何度か足を運んでみるも、買うものが決まらず今日を迎えてしまった。
ギリギリまであちこちの店で悩んだ末に購入したのは、髪を縛るゴム。茶色のゴムの一部分に、白地に赤で縁取られたリボンが幾重にも重なっている。その中央では円形にダイヤカットされた水色のスワロフスキーが輝き、まるで今は無き《血盟騎士団》の騎士服と、アスナ/明日奈が装備していた《ランベントライト》を彷彿させるものがあった。
あまりSAOのことを連想させるものではない方がいいのかとも思ったが、今日最後に立ち寄った店で目に入った途端に強く惹かれ、気付いたら手に取っていた。
安物になってしまったのは申し訳なくも思うが、眩しい笑顔が見られたことにひっそりと胸を撫で下ろす。けれど次の瞬間、ヘイゼルの瞳からも光るものが零れ、頬を伝って紙袋に落ちた。薄桃色の紙袋の一部に、不規則な水玉模様が浮かび上がる。
慌てて俺が指の腹で涙を払うと、明日奈はくすぐったそうに笑った。
「そ、そんなに泣かなくても……」
「だって、嬉しかったんだもん。誰かにこうやってプレゼントをもらうのも久しぶりだったし……キリトくんからのだもん……」
「いや、でも、安物だし……」
「もう!」
「うわっ!」
いつの間にそこまでの力がついたのだろうか。俺は明日奈の両腕に強く引かれ、気付けば顔に柔らかい感触が押し付けられていた。
「!?」
反射的に離れようとするも、明日奈は気付いていないのか、それとも意図的なのか、更に俺を引き寄せ離そうとはしない。病衣は思いのほか薄く、その下にある好ましい感触がほぼダイレクトに伝わってくる。
どうしようもなく狼狽えていると、「あのね」と落ち着いた明日奈の声が降ってきた。
「キリトくんが一生懸命選んでくれたものなら、何だって嬉しいんだよ。中学生のときは、プレゼントって言うと参考書とか、専門書とかばっかりだったから。ホワイトデーなんて、お兄ちゃんからお菓子貰ったくらいだもん。だからこうやって誰かに貰えて、すごく嬉しかったの。……好きな人から貰うのは、特別……なんだよ?」
「…………」
明日奈が話し始めてからは比較的落ち着いて聞いていたが、最後に小声で囁かれた言葉に動揺し、どう反応すればいいのか解らなくなった。顔が熱を持ち始め、目の前の少女への愛おしさだけが込み上げる。
両腕を動かし明日奈の身体を支えながら、俺は勢い良く顔を上げた。
「ひゃん」
という小さな悲鳴を聞きながら前方へ倒れる。どさっ、という音とともに明日奈の背中がベッドに落ちる。白いシーツにふわりと栗色の髪が広がり、俺とは違う優しい香りが漂った。
下から見上げてくるヘイゼルの瞳はまだ少しだけ潤んでいたが、不安の色は見えない。けれど恥ずかしそうに上気させている頬が、更に俺を煽る。
「明日奈……」
「キリトく……んんっ!」
胸に押し付けられた上に可愛らしいことまで言われ、我慢できるはずもなく桜色の唇を塞いだ。普段はなるべく抑えている分こういうときはついがっついてしまうが、無意識に煽ってくる明日奈が悪いのだと、くぐもった声を何度も貪る。
「ねえ……あと少し……キリトくんが帰るまで、ぎゅってしててほしい……」
――うん。やっぱり、明日奈が悪い。
end
2018/02/02 初出