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「はぁ……。お、落っこちちゃうかと思ったじゃない!」
「ご、ごめん。急いでたもんで……」
世界樹上にある都市《イグドラシルシティ》にあるいつもの宿に戻ってきた俺は、先ほど急上昇だの猛スピードだのを繰り返していたおかげで、眼の前のウンディーネに、水色の髪を揺らしながら叱られている。
しかし今度は現実世界と同じ端正な眉を八の字にし、
「……ううん、ごめんなさい。君は急ぎの用があるって言ってたのに、わたしが寄り道させてしまったんだもの……」
などと落ち込んだ声色で言ってくる。
感情表現がややおおげさになる仮想世界だが、それでもアスナの表情を見る限りかなり落ち込んでいるようだ。対人スキルが低い俺としては、そういう顔をされてしまうとどうすればいいのか分からなくなる。
とりあえずこの場を切り抜けようと「それより」と話を変える。
「用事、済ませるから、その辺にでも座ってて」
「……ここでやるの?」
「そ」
怪訝そうにしながらも近くにあった木製の椅子に腰を下ろしたアスナを見とめると、俺は左手人差し指と中指を伸ばし、身体に垂直になるように振り下ろす。
出現したステータス・ウィンドウから、予めクラウドのストレージに入れておいた《それ》を探す。
それを俺が譲り受けたのは、数ヶ月前のことだった。
「SAOで稼動予定だったシステムの一部だ。失くしてしまうのもどうかと思ってね。ぜひ君に託したい」
アルバイト先のとある人物にそう言われて渡されたのは、《MHCP-01》という妙な名前のプログラムだった。時間をかけて解析を重ねた結果、高度なAIだということが解かった。
改めてその人物へ問いただすと、何か企んでいるかのような笑みを作り、
「ふっ、そこまで辿り着いたとは。さすがだ、桐ヶ谷君。ではそれに値する報酬を与えよう」
「報酬……?」
「そのAIの正体が何なのか――。それが報酬だ。デリートするも育てるも、君に託すよ」
言いながら差し出したのは、設計書と企画書だった。
疑念が払えないまま帰宅しそれらを読むと、《ソードアート・オンライン》で実装予定だったとあるプログラムだということが判明した。
《メタルヘルス・カウンセリングプログラム》。
要するに、プレイヤーの精神状態を観察し、問題があればそのプレイヤーの元へ赴いてカウンセリングする、というもの。試作一号らしいそれは、《Yui》というコードネームがつけられていた。
さらに調べを進めると、SAOのために作られたプログラムではあるが、少し手を加えればALOでも展開が可能だということが解った。それからというもの、俺は時間を見つけては展開ができるようプログラムに少しずつ手を加えた。……とはいえ、あの人の作ったソースに手を加えるのは容易ではなく、俺のプログラムの知識が未熟なこともあり、全てが終わるまでに随分と時間がかかってしまった。
そして昨日、全てが終わり、今日ようやく展開ができるというわけだ。
ストレージをスクロールし、【MHCP-01】と書かれた文字に触れる。――と、俺の目の前に雫型にカットされた水色の小さな宝石が現れた。ぼんやりと発光していて、そのものが命を持っているようにも見えた。
「…………」
アスナもじっと見守る中、俺はそっと宝石の中央部を指で押す。
数秒の間。
しかし次の瞬間、雫型の石から強烈な白い光線が放たれ、思わず両腕で目の前を遮った。
「……っ!」
腕の間から見えたのは、光が徐々に人の形を形成しているところだった。やがてそれが六歳ほどの子供の大きさになったところで白い光はおさまり、黒く長い髪を持つ白いワンピース姿の少女が床に両足をつけた。透き通るような白さの肌のせいか、どことなく儚い印象だ。
閉じられた白い瞼が開くと、大きくて綺麗な黒い瞳が現れ、不思議そうな色で俺を見つめる。
「…………えーっと……、俺のこと、わかるかな……?」
少女は何度か眼をぱちぱちとさせるも、花が咲いたような笑みを見せ大きく頷いた。
「はじめまして。わたしはメンタルヘルス・カウンセリングプログラム、試作一号のユイです。これからよろしくお願いしますね、パパ」
「ぱ……っ」
――パパぁ!?
予想外の単語に思わず心の中で叫んだ。
つい先週二十歳になったばかり、さらに彼女もいないのに〝パパ〟と呼ばれてしまう日がくるとは思ってもみなかった。
ちらり。横目にアスナの様子を見ると、大きな瞳をさらに驚きに見開き、口をポカーンと開けている。俺も同じような顔をしているのではないだろうか。いや、それほどまでにどこからツッコめばいいのか頭が追いついていないのだ。
先に現実に復帰したのはアスナのようで、隣から訝しげな声が聞こえた。
「え……っと、キリト君ってそういう趣味だったの……?」
「ち……違う! 断じて違うぞ!」
決して幼女趣味もなければ、小さな女の子に『パパ』と呼ばせるような趣味もない。そもそも、対象の誰かをこう呼ぶように、なんてプログラムは何一つ組んでいなかった。では一体……。
「えっと……ユイ、って呼んでもいいのかな?」
冷静さを取り戻しつつある頭で訊ねれば、黒い艶やかな長髪が揺れた。
「ユイは、どうして俺のことをパパって呼んだんた?」
「それは……調べたデータによれば、男性と女性が二人でいる場合、男性は〝パパ〟、女性は〝ママ〟と呼ぶと書かれていました。なので、そう呼ばせていただいたのですが……」
何か間違いでもありましたか? と純粋無垢な瞳で首を傾げられてしまい、訂正するにもしづらい。
それにしても、展開させてからのあの短い時間であらゆるネットワークにアクセスしそこまで調べ上げてしまうとは、やはりかなり高度なAIのようだ。
……ん? 『女性はママ』と言っただろうか? ということはつまり……。
ママ、と呼ばれた女性を見やれば、あんなに白かった頬を赤くし、そこに両手を押し当てている。放って置けば湯気でも出てきそうな勢いだ。
俺の視線に気づいたのか、アスナははっと我に返り、早口で捲し立てた。
「っ! ち、違うからね! わたしたちそんな関係じゃないのよユイちゃん!」
「そうなのですか? では、お二人はどういう関係なんですか?」
「えっと……し、知り合いよ! うん。キリト君はただの顔見知りなの」
確かにそこまでの深い仲ではないが、こうも否定されまくるとなぜか心が痛いが、俺は一つ咳払いするとアスナの言葉に乗った。
「そ、そうなんだよ。アスナとはさっき偶然知り合って、仕方なく今一緒にいるいってッ‼」
なぜか肘で思い切りど突かれ、肘鉄が飛んできた方を見ればつんっと顔を逸らしている。
妨害が入り最後まで言えなかったが、ユイにはきちんと伝わったようだ。
「なるほど……では、キリトさんとアスナさんとお呼びしますね」
キャラクターネームだから「さん」は付けなくても……と付け加えるより先に、ウンディーネの女が口を開いた。
「……ち、ちょっとよそよそしくなっちゃうから、呼び方は『ママ』でもいいわよ。あ! でもこの人とは別にそういう関係じゃないからね!」
「はい! ありがとうございます、ママ!」
結局アスナは「ママ」で通すようだ。けれどそれも仕方がないと頷ける。それほどに、ユイというAIの少女が見せる表情は温かく、こちらまで満たされたような気持ちになるのだから。
***
「ママ、もっと肩甲骨のあたりに意識を集中させてください」
「こ……こう……?」
「はい! その調子です!」
透明な水色の翅を広げ、仮想の星空の下、メンタルヘルス・カウンセリングプログラム――改め、ナビゲーションピクシーのユイのレクチャーで《随意飛行》の練習をしている。
SAOではプレイヤーの精神状態を観察するためのプログラムとして組まれていたが、その役割を果たすこともなく妖精郷で展開されたユイは、ナビゲーションピクシーという新たな役割がカーディナルシステムというこのゲームの基幹プログラムに与えられたらしい。……というのはキリトとユイが話していたことで、アスナは聞いたことのないワードが飛び交う中で話を理解するのがやっとだった。
ナビゲーションピクシーの役割は、その名の通りプレイヤーのナビゲートだ。最初はキリトにこのゲームの遊び方をレクチャーしてもらう予定だったのだが、「わたしにやらせてください!」と小さな妖精姿となったユイに言われ、こうしてユイと二人でまずは飛行の練習をすることとなった。
キリトはというと、少し離れた位置でアスナたちの様子を見ている。飽きてしまったのか本当に眠いのかわからないが、時折あくびをしているのが目に入った。そんな姿に付き合わせてしまって申し訳ないと思い、早く随意飛行をマスターしようとアスナは懸命に翅を動かし続けた。
そうして飛び続けた結果、早一時間ほどで飛行をほぼマスターしてしまったアスナに、キリトは驚きに眼を見開いた。
「さ、さすが優等生サマ……。まさかこんなに早く飛べるようになると思わなかったよ」
「まだちょっとだけ不安定なところもあるけどね。でもゲームしているうちに慣れていけそう」
「そうか。……じゃあ、ちょっと難易度上げてみるか?」
ニヤリ、とキリトは肩頬で笑う。いたずらっ子のような笑みを初めて見せられ、アスナはなぜかドキリとした。
――別に、どんな難しい課題が出されるのか緊張してるだけなんだから……。
自分に言い訳するように胸の裡でひとりごち、キリトへ答える。
「いいわよ。でも飛行に難易度なんて……あ、戦闘……?」
「お、ご明察。さすがに勘が鋭いな」
そう言うと、キリトは付いて来いと手で合図し、下の森林へ降りて行った。ユイを肩に乗せたまま、アスナもその後に続いた。
仮想世界といえど、森林の中は暗く、月明かりも雀の涙ほどしか射し込まない。生い茂る緑のせいか、どことなく湿気が多い上に時折がさがさと小さな物音もするため薄気味悪く、何かの拍子に叫んでしまいそうになる口を抑えた。もし太陽が出ていれば、きっとフィトンチッドの効果でもっと落ち着くことができたのだろうが、アスナの心にそんな余裕はなかった。
しばらく歩いて行くと、木が生えていない少しひらけた場所に出た。月光が降り注ぎ、そこだけライトに照らされているかのように明るい。その中に立つ黒い妖精がとても様になっていて、綺麗で、ここが仮想世界であることをアスナは一瞬忘れた。
「……ママ?」
「あ、うん。行こっか」
ユイの声に我に返り、慌ててキリトの元へ足を運んだ。
「えっと……初期装備って選べたと思うんだけど、アスナは細剣にしたのか。まあ、ウンディーネだから魔法主体なんだろうけど、俺が魔法あんまり使えないんだよなあ……」
「魔法はスペルを覚えればなんとかなるのよね。チュートリアルでもスペルの一覧があるって言ってたし、そっちはとりあえず大丈夫だと思う。問題は剣のほうね。フェンシングのフルーレと似たような感覚だと思って細剣にしてみたんだけど……」
「ふ、フェンシングの経験がおありなんです……?」
「高校生のときに授業で少しだけやったの。だから、他の武器よりは扱えるかなあって」
「な、ナルホド……」
そんなに高校の授業でフェンシングを習うことが珍しいのか、「授業でフェンシング……」と小さな呟きがぶつぶつと聞こえてくる。
「パパ、早くしないと日付が変わってしまいますよ?」
「え、あ、ああ、そうだな。……じゃあ、まずは基本からだな。言っておくけど、先輩だからって容赦はしないから覚悟しておくように」
「ええ、望むところよ」
「わたしもアドバイスできるところはするので、頑張ってください」
小さな拳をぎゅっと握りしめるユイにアスナは頷き返し、腰に下がっているレイピアの柄を掴み一気に引き抜いた。じゃり――と金属音を立てるレイピアはやはり現実世界のフルーレと違う。けれどそのずっしりとした金属の重みが、未知の世界でのこれからを思わせアスナは胸を躍らせた。
to be continued
2017/09/10 初出