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「名前と学部までは解かったんだけどねぇ……」
組んだ手の上に顎を置き長い溜息を吐く里香に、明日奈は苦笑で返す。
里香に例の青年を調べようかと提案されてから二週間以上が経過していた。噂の助けもあり、学部と名前はすぐに――なぜか話しかける生徒は決まって緊張した面持ちで答えていたが――調べることができた。木曜日の二限目の後にはよくカフェテリアに出没するという話も聞いた。
しかし先週、そして今日も空振りだったのだ。偶然にも木曜日の二限目を取っていない明日奈たちは、二限目が終わる五分前からこうしてカフェテリアを訪れているが、それらしい人物がやってくる気配は一向にない。
キャンパスも広いし、人だって職員を合わせればかなりの人数になる。それに、突然お昼を食べる場所が変わることだってあるかもしれないし、体調不良などの理由で登校していない可能性だって否定はできない。
仕方ないとは解かっていても、二週連続でハズレれば溜息が出る気持ちもわかる。
「仕方ないよ、これだけ生徒がいてキャンパスも広いんだもの。名前が解かっただけでも十分だよ。もし次に会うことがあればその時にお礼すればいいし」
「……それもそうね。それより早くお昼食べましょ。あたしお腹ぺこぺこよ」
明日奈もさすがに空腹には耐えられず、里香の言葉に同意すると持参の弁当箱を開けた。
二人で持ち寄ったデザートまで綺麗に平らげお茶を飲みながら、ふとある考えが明日奈の中に浮かんだ。
「あの場所に行ったら会えるかな…………」
「……? あの場所……?」
里香が訊き返すが、明日奈はそれに答えることなく逆に里香へ訊ねた。
「……ね、今日の夕方は空いてる? 一緒に来てほしいところがあるの」
明日奈がじっと里香を見つめると、あまり理解できていない表情ながらもこくこくと里香は頷いた。
講義を終え夕方になると、明日奈は里香を連れ立ってキャンパス内のとある場所を訪れた。
「ここ?」
「うん。ここ」
つい三週間前にも、明日奈はここを訪れていた。その時目の前のベンチにいたのは、黒髪の青年。今は里香と明日奈の影が長く覆っている。影の間からは、夕陽の赤が射す。
たしか、彼がここにいたのはちょうど三週間前のこれくらいの時間だった。だからここに来ればもしかしたら……という希望があったのだが――。
「誰もいないわね」
明日奈の気持ちを代弁するように里香がつぶやいた。
「……西側だからね。南側と東側は人が多いんだけど、こっちは少ないし、この時間の夕陽がすごく綺麗で、なんだか落ち着くの」
ビルの間から見える夕陽は、普段の雑踏から離れた場所で、何事に縛られることもなく遠い場所に来ることができたような気持ちになり、ただただ無心になることができる。家のことで縛りが多かった明日奈にとって、ここはそれらから解き放ってくれる唯一の場所だった。
けれど今は――。
「……さ、そろそろ帰ろう。ごめんね、付き合わせちゃって」
少しの期待も見事に外れ、ここにいつまでもいる理由もない。
何も言わなかったが里香もここに連れて来られた理由については察していたようで、やれやれといった表情で明日奈の言葉に頷いた。
***
背中を、桜の木の幹からそっと離す。
先ほどまで二人の生徒がいた場所へ眼を向けるが、もうそこには夕陽に照らされた木製のベンチがぽつんと佇んでいるだけだった。俺はそっと息を吐き、木の影から身を乗り出した。
《ある人物》が俺について調べているらしいという話は、先週初めて耳にした。理由は全く解からない。しかし訊かれた者はベラベラと俺の出没場所まで丁寧に話したらしく、先週の木曜日にカフェテリアを利用しようとしたらその人物がなぜか俺がいつも座る席にいて、そのまま購買へと直行した。そして今日も同様だったため、購買に直行し外のベンチで友人とパンを齧っていた。いくらカフェテリアのランチセットが冷凍のエビフライとはいえ、あれでも腹の足しになっていたんだなあ、なんてあまり意味の無い知識が脳内メモリに蓄積された。
講義を終えてからベンチで昼寝でも、と思い昼寝をしていると、遠くから聞こえた声で眼が覚めた。眼を凝らすと見知った人物が小さく見え、慌ててこの木の陰に隠れた。また会えば変な噂が立ってしまうのではと危惧した俺は、彼女たちの気が済むまでとりあえず会わないようにできる限りの回避はし続けるつもりだ。その間、俺は外でパンを齧る日が続くことになるのだろうが。
学校から離れ、俺は自宅へ足を進めていた。陽はもうすぐ地平線へ沈もうとしていて、空は紺とオレンジのグラデーションがどこまでも広がっている。俺の前に伸びる影もほとんど地面の色と同化してきている。加えて、普段黒っぽい服ばかりを好んで着る俺は今日も例外ではなく、きっとこの街頭の少ない風景にも馴染み始めてしまっているだろう。
一度、後ろから猛スピードで走ってきた自転車が俺に気付かず突っ込まれそうになったことがある。ギリギリのところでキキィー! と急ブレーキがかかり人身事故になることは免れたが、それ以来、妹や母親に『もっと明るい色の服を着なさい』と言われるようになってしまった。しかし白が残念なくらい似合わないため、着てもグレーや青がいいところだ。
学校を出てから十五分ほど歩いたところで、古びたアパート――俺の現在の住まいへ辿り着いた。今時電子ロックが主流だというのに、このアパートはまだ鍵穴に鍵を挿して回し、鍵穴のすぐ上にある暗証番号を入力して開けるタイプだ。セキュリティが甘すぎるくらいに甘いのは少々心もとない気もするが、家賃が安い分仕方ない。
玄関を開けると、小さな廊下――と呼んでいいのかも怪しいくら短い――があり、小股で五歩ほどあるくと左側には小さな台所がある。一つ口コンロとシンクがあり、自炊しようと思えばできるが最近はあまりやっていない。いや、カップ麺用にお湯くらいは沸かした気がする。
シンクの奥には、小さな冷蔵庫。定期的に安売りしている惣菜を買ってきては入れておき、それが平日の晩飯や休日の昼飯になる。ゲームに集中していたり課題に夢中になっていると抜いてしまうことも多々あるが、さすがに今日は腹が減った。惣菜を出そうと鈍いグレーの扉を開けたが、
「……ウソだろ……」
なかった。何もなかった。あるのは二リットルのペットボトルに入った水くらい。思い返してみれば、昨日の晩で全て食べきってしまったような気がする。本来であれば今日の学校帰りにスーパーにでも寄ろうと思っていたのだが、色々あったおかげですっかり頭から抜けてしまっていた。
腕時計を確認すると、時刻は午後七時十二分。近所のスーパーは夜九時まで営業していたはずだから、今から行けばまだ何か買えそうだ。今から外に出るのも正直ダルイが、空腹には耐えられない。俺は床に置いたデイバッグを再び肩にかけ、短い廊下から外へ向かった。
歩き始めてから五分ほどでスーパーへ到着し、俺はここ数ヶ月で馴染んでしまった惣菜コーナーを目指した。運よく店員が値引きシールを貼り出していて、半額商品が多く点在している。俺はたっぷり十秒考えて、鶏もも肉の唐揚げ四個入り百五十円のパックへ手を伸ばす――が、視界の右側から白い手が同じものを目指して伸びてきた。とっさに手を引くと、向こうも同時に手を引いた。
「す、すみませ……」
言葉と共に顔を上げると、見たことのある人がそこにいて俺は思わず固まった。相手も大きなヘイゼルの瞳をより大きく見開き驚愕している。よりによってこんな場所、こんなタイミングで会わなくてもいいのでは? と俺の運の悪さを呪った。
顔をひくひくと引き攣らせ、俺は百八十度身体の向きを回転。その場から立ち去ろうと……
「桐ヶ谷、和人君……ですよね?」
――できなかった。
さすがに名前を呼ばれて無視するわけにもいかず恐る恐る振り返ると、キャンパスのマドンナ的存在らしい人物が立っていた。
to be continued
2017/07/15 初出