菫の残り香と約束と

〈ステラマリス〉の医療区画の、とある病室前。レーナは作戦指揮官としての仕事の合間を縫って、やってきたそこで立ち止まった。
 右手を上げて――そのまま下げる。
 冷えた針葉樹の香りが仄かに残る連邦軍服の上着を抱えながら、そろそろと息を吐き出した。
 この軍服の持ち主――シンは、今レーナの眼前にある扉の向こうで療養中だ。先日も様子を見に来たときは無理をしたせいで眠っていて、シンの育ての親でもある老神父も居たため結局病室の中までは入らなかったのだけれど。
〈ツィカーダ〉姿が彼に見つかったときに、着ていてくださいとやや乱暴に渡された上着をそういえば返せていなかったと気付いて、改めて様子見を兼ねここまで足を運んだ。
 まだ眠っているだろうか。入って、起こしてしまわないだろうか。
 しばらく迷った結果、極々控えめにノックの音を鳴らした。普段のシンであれば眠っていても気付いたかもしれないが、数秒待っても返事はない。
 それほどに深く、眠り込んでいるということ。
〈レギオン〉の声が常日頃届いてしまうことを考えればいいことなのだろう。けれど今回こうして療養しているのは、摩天回楼から暗い海へと落下し、更にその後も無茶をしたせいだ。
 帰って来ることができただけでも、奇跡かもしれないのに。
 その上、あんな無茶を――。
 愁眉を寄せまた少し考えてから、レーナはゆっくりと扉をスライドさせた。
 すぐに目に留まったのは、どこもかしこも白い病室で、唯一色付いた黒。しかしその黒い頭にも白い包帯が巻かれていて、このまま白に飲み込まれて消えてしまうのではないかと途端に悪寒が走った。
「シン…………」
 ベッドの横まで歩み寄って、布団が僅かに上下しているのを確認して、へなへなと足の力が抜けそうになる。
 白皙の端正な顔は青白く、体に繋がれているの点滴のチューブは、あまりに痛々しい。……ここまで酷いシンの状態は、レーナが連邦に来てから初めてのことだった。
 また無茶をして。上官として叱責はしたいけれど、でも、それ以上に、帰って来られて良かったと思う。
〈アンダーテイカー〉が黒い、底の見えない夜の海に落ちた瞬間、本当に怖かった。何も伝え切れずにこのまま帰って来られなくなったら――否、例え先に伝えられていたとしても、帰って来なかったらどうしようかと頭が真っ白になった。
 レーナたちがいるのは戦場だ。だからどれだけ強くても、どれだけこれまで生き残ってきたとしても、いつ死神の鎌が振り下ろされるのかなんて分からない。
 これまでだってたくさんのエイティシックスが、戦場で散っていった。だからそのことは、分かっていたつもりだけど。
 ぎゅっと、軍服を抱えた腕に力が籠もる。
 その対象がシンになると考えると、それだけでどうしようもなく怖い。帰ってくると、待っていると約束したのだから、きっと大丈夫だという気持ちもあるけれど、それでも恐怖心が完全に消え去ることはなくて。
 セオだって、生きてはいるけれど片腕を失って、もうあれでは前線に戻ることもできないだろう。
 どんどん沈んでしまう思考を振り払うように、レーナはかぶりを振った。
 ちゃんと帰ってきたのだから、今はそれだけでいい。
 手を伸ばして、布団に投げ出されている大きな手にそっと重ねた。まだ血の気が薄いのか、レーナとあまり変わらない体温。
「ゆっくり休んでくださいね、シン」
 休んで、回復して。
 そしたら今度こそ、逃げ回って伝えられずにいた言葉を、ちゃんと伝えるから。

***

 ふと意識が浮上して、刺すような消毒臭さの中に聞き慣れた花の香りがした気がした。
「レー、ナ……?」
 音にもなりきらないような、ひび割れて掠れた声。
 ぼやける視界を、何度かまばたくことでクリアにする。白いタイルを張り付けたような天井と、薄いカーテン越しに差す茜色。それで、どうやら夕方らしいと悟った。
 朝は一度起きたのだが、いつの間にかまた眠ってしまっていたらしい。寝過ぎているはずなのに体はまだ重く、瞼を閉じたら再び夢の中へ沈んでしまいそうだった。せめて上体だけでも起こしたかったが、体はベッドに固定されているかのようになかなか動かない。ここで無理をしても仕方がないかと、僅かに上がっていた頭をぽすんと枕に落とした。
 深く息を吸って、ゆっくりと吐く。たったこれだけのことでも体が軋んでいるような気がして、これは復帰までにだいぶ体が鈍りそうだ。
 再びふわ、と花の――レーナのすみれの香りが幽かにして、そういえばと目だけで病室を見回す。しかしその香りの主はどこにも見当たらない。眠っている間に様子を見に来ていたのだろうか。
 一人で泣いていないと、いいけれど。
 また泣かせたのだろうな、と思う。
 戦闘の終わり、最後に見たレーナは泣き出しそうだった。シン自身も無理をした自覚はあったし、あの時はさすがに限界で気を抜けば意識が途切れそうだったから、戦っていた他の仲間への報告を優先したのだが。
 セオも。
 最後に知覚同調パラレイドで話した後、様子を見に行けていない。自分がこんな状態なのだから、セオも身動きを取るのは難しいだろう。片腕を失ったとは聞いているが、――会って、何を伝えたらいいのか、シン自身も整理できていないから。
 血の巡りがまだ悪い中で考え込んでしまったせいか、軽い眩暈が襲った。強く目を瞑ってやり過ごして、再び天井を見上げる。さすがに昨日よりはましになった気もするが、この状態が続くのもなかなかきつい。
 そろそろ軍医が様子を見に来る時間だろうか。ベッドサイドテーブルに置かれた時計を見たくて首を僅かに傾ける。
 と、今朝はなかった黒い布の塊――不恰好に畳まれた軍服を認めて、思わず苦笑が零れた。やっぱりシンが眠っている間に来ていたのか。
 作戦前に抱き寄せた華奢な体の感触と、触れた唇の柔らかさを思い出す。真っ赤になった白磁の頬と、潤んだ白銀の瞳も。
 いつまでも返事がなくて、逃げられて。さすがに拗ねたい気持ちになって、少し強引なことをしたかなと今更思ったけれど、先に仕掛けてきたのはレーナの方だし、嫌がる素振りはなかったから、嫌われてしまったということはない……と思う。
 どうせなら、起きている時に来れば良かったのに。
 しかし大佐で、総指揮官であるレーナは常に多忙だ。だから仕方がないのも分かっているし、特に今回は死者も負傷者も多かったから、皆の様子を確認して回っているのだろうけれど。
 体が痛むのを無視して、再び深く息を吸った。
 残り香はもう薄いけれど。それでも仄かに香るすみれに、生きて帰って来られて――約束が守れて良かったと、心の底から安堵を覚えた。

end
2024.01.21 初出