紺青の軍服に袖を通し、レーナは姿見の前でくるくると全身を確認する。
鏡に映った髪色は一点の曇りもなき白銀。一年半ぶりに赤がないことが少しだけ不思議で、少しだけ心許ない。
黒染めの軍服と、紅く染めた髪。ずっとそれを鎧代わりに、ここまで進んできた。
数日前、ついシンの前で吐露してしまったことを思い出す。
本当は彼に吐いていい弱音ではなかった。鮮血の女王と呼ばれようと迫害していた側であることに変わりはなくて、誰も助けてくれなかったなんて、彼らこそが常に抱えていたはずの気持ちで。それを白系種の自分が口にするなど、甘えもいいところだ。
けれど、それをシンは否定しなかった。普段は感情をあまり出さない静謐な声はむしろ、レーナのそんな心情を察したような色をして。
――一緒に戦う――のでしょう?
干からびかけた植木鉢の土に水が注がれるように。
彼の声音はそんなふうにすっと心に入ってきて。あれから――スピアヘッド戦隊を特別偵察へ送り出してから誰かの前で泣くことは我慢してきたけれど、たった一言で決壊してしまった。
目の前にあった少し高い体温。静かで風が凪ぐような声。それらのおかげで、もう、一人ではないと分かったから。彼らがいるから。だから――大丈夫。
「よし」
最後にリップを薄く塗り直して、レーナは執務室を後にした。
「シン!」
食堂へ向かうべく、階段を下りてプロセッサーたちの居室があるフロアの廊下を歩いていると、ちょうど勤務服を着た黒髪の彼が自らの居室から出てきたところだった。
血赤の双眸が何度か瞬いてから、穏やかな色を帯びる。
「レーナ。おはようございます」
「お、おはようございます」
一瞬、心臓が跳ねた。
名前で呼んで欲しい、とレーナから伝えてから数日が経つものの、なぜかシンに呼ばれるのは未だに慣れない。決して嫌なわけではなく、素直に嬉しいと思う。けれど静穏な声音が同調越しではなく鼓膜を直接震わせるせいなのか、そわそわと心がざわついてなんだか落ち着かない。
そうして視線を泳がせるレーナにシンは首を傾げながら、昨日まではあった、視界に入ると思わず目を眇めてしまっていたそれが綺麗に消えていることに気付いた。
「髪、戻されたんですね」
「あ……ええ。ちょっと時間がかかりましたが、アネットにも手伝ってもらってなんとか」
エイティシックスに流させた血の色。それがあった辺りを繊手で触れながら、レーナのかんばせに淡い笑みが浮かぶ。
ようやく銀色の瞳と目が合って、シンの目元が緩んだ。
「やはり、その方がいい」
「っ! ありがとう……ございます……」
頬が急に熱を帯びる。
レーナとて容姿を褒められたことは初めてではない。自意識過剰ではないが、それなりに整った容姿だという自覚もある。
けれど下心のない真っ直ぐな言葉は、特に異性からは向けられたことがなくて、なんだかくすぐったい。……くすぐったくて、心臓がどきどきして、嬉しい。
「レーナ……?」
白い頬を赤くしたまま目を伏せるレーナを、不思議そうにシンが覗き込む。
それにはっとしたレーナが、なんでもないですと頭を振った。同時に、銀繻子の髪が揺れてふわりと甘やかな香りが漂う。彼女と再会した時からしていた、清冽でありながら甘さを含んだ優しい香り。
「……ずっと、気になっていたのですが。何か付けていますか? 少し甘い匂いがするので」
突然の質問に、レーナは瞬いてからこくりと頷く。
「ええ。香水を、少しだけ。菫の香りなのですが、もしかして不快でしたか……?」
「いえ、強すぎる匂いではないですし。特に不快だとは」
むしろ、彼女らしい早春の花の香りだと納得した。
香水は身だしなみの一つとして付けると言われているし、その言葉通り連邦に来てからそれらしき様々な香りが何度も聞こえてきた。腐臭と血と硝煙の臭いに慣れてしまっていたから、匂いに対して今更どうとも思ってはいないつもりだったけれど。――レーナの香水の香りは好ましい、思う。妙に心臓の辺りがざわつく気がするが、隣に確かにいると分かるから、どこか安堵するような心地もして。
ふわりと、レーナが顔を綻ばせる。
「良かった。シンも、もし興味があったら何か付けてみてはどうです? たくさん種類もありますし、選ぶのも楽しいですよ」
「……いえ。おれは、あまり興味はないので」
それに、そういうものが自分に似合うとはとても思えない。
淡々と返すシンに、レーナはそうですか、と眦を下げた。彼ならどんな香りが似合うだろう、とちょっとだけ想像もしたのだが。もし今後興味を持つことがあれば好きな香りを教えてもらおう、とひっそり思った。
「連邦の基地には慣れましたか?」
「なんとか。リュストカマー基地は広いですし、全部はまだ回りきれていませんが。……白系種の、共和国軍人のわたしが無闇に出歩いては、あまりいい顔をされないかもしれないですが」
「大佐、」
被せるようにシンが呼びかけて立ち止まる。
「初日に言ったはずです。悲壮面はやめてください、と。……無礼を働かれたら、軍規に則って叱責し罰してくださいと」
悪いのは共和国であってレーナではないし、彼女一人ではどうにもできなかったことを背負う必要などない。だからもうこれ以上自分を責めるようなことはしなくていいと、言ったはずだったのだが。
表情こそ常の沈着さだが、どこか気遣わしげな、哀しげな声音にレーナは柳眉を下げた。
「……そう、でしたね。すみません。それが条件と言われていたのに」
「いえ……」
気まずいような沈黙が下りて、しばらく無言の時間が続く。
廊下の窓の外からは鳥の囀りが聞こえて、時折他のプロセッサーがレーナたちの横を通り過ぎて行く。
そうして一分にも満たない、けれどレーナにとってはそれ以上に感じた時間が経過した頃。先に沈黙を破ったのはシンだった。
「……また、良ければおれが案内します。作戦準備もありますから、以前ほど時間は取れないとは思いますが。空いた時間にでも」
静穏な、どこか落ち着く声は淡々と告げるけれど、そこには彼の優しさが滲んでいて。
やっぱり受け取るこちらが痛いくらいの温かな気持ちに、レーナの胸がぎゅっと締め付けられる。
「……ありがとうございます」
自然と出たレーナの淡い笑みに、シンも無意識のうちに僅かに表情を和らげた。
それから再び二人で廊下を進み、第一食堂が近付いてきた頃。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。きっと今日も料理長が腕によりをかけて朝食のメニューを用意しているに違いない。
「いい匂いがしますね。いつもご飯が美味しいので、楽しみにしてるんです」
言葉通り楽しそうなレーナに、ふ、とシンの口元が緩む。
「気に入りましたか、連邦の食事は」
「ええ、とっても。デザートまであるのでつい食べ過ぎてしまいそうになって、抑えるのが大変で……って、わたしの食い意地が張ってるとか、そういうのではないですからね!?」
はっとしてあわあわしているレーナに、シンはくつくつと肩を揺らした。
「よく食べるのはいいことだと思いますよ。ああでも、実は鹿のステーキが今のところ一番気に入っていたりしませんか?」
「そっそんなこと……! あるかも、しれないですが……」
頬を赤くしながら萎む様子に今度こそシンが堪えきれずに噴き出して、また揶揄われたと悟ったレーナがむぅと頬を膨らませる。
「……いじわるがすぎますよ、シン」
「すみません。レーナの反応がおかしかったので、つい」
言いながら、華奢な肩がほんの少しだけぴくりと反応しているのを横目に見たシンは、ここ数日気になって、今ようやく答えを見つけた気がするそれを訊ねてみた。
「ところで。……名前で呼ばれるのは、落ち着きませんか? レーナ」
彼女から言い出したのに、とは思ったが、どうやら正解らしい。
レーナはこきんと硬直してから、指先をもじもじと動かした。
「あの、その…………少し、だけ。で……でも、嬉しいんです! ようやく、シンたちに追いついて、一緒に戦えるんだって」
壁の中と外の関係ではなく、立場の違いはあれど同じ場所に立って戦う仲間になれたのだと、そう思えて。
「だから――たくさん呼んでもらえたら嬉しいです。まだ少し緊張しちゃいますけど、いつか慣れると思うので」
それが当たり前になるくらい、これから一緒に戦っていくのだろうから。
照れくさくなってはにかむレーナに、シンは一つ瞬いてから幽かに笑った。
「ええ。いくらでも」
「……ねえ。ここ食堂近いから人が多いって、分かってやってるのかな。あの二人」
「さあ。分かってねえんじゃねえか?」
「だよね。……あれで二人とも自覚ないのほっんと困るんだけど」
生ぬるい空気漂わせながらようやく食堂へ入っていった二人の背中を見送って、セオとライデンはげんなりしながら溜息を吐いた。
end
2022.09.05 初出