「な、なぜ隊舎にこんな部屋が……」
というか、こんな部屋は昨日までなかったと記憶していたのだが。とレーナは愕然として。
「……心当たりがあるのは、一人しかいないけど」
また面倒なことに巻き込まれたな、と主犯でありそうな人物を浮かべながらシンはげんなりする。
〝キスをしないと出られない部屋〟と書かれた張り紙。扉には自動ロックがかかるようになっているらしく、内側から開けることはできない。窓もない部屋のため、ガラスを突き破って外に出ることも不可能だ。広さはプロセッサーの居室――つまりシンの私室と変わらない程度で、やや狭い。
そもそも、ここは昨日まで紙資料の保管庫の一つだったはずで、だからシンもレーナの手伝いとして引っ張り出した資料を戻しに来たというのに。いったいどうやって一晩でこんな改造を進めたのか全くもって不明だが、今考えたところでどうしようもない。
資料を運ぶだけなら大丈夫だろうと二人ともレイドデバイスを置いてきてしまったが、こんなことなら持ってくれば良かったかとシンはひとりごつ。
部屋から出たらシャベルを探すところからだな……、と内心苛立ちを覚えていると、勤務服の上着がくい、と引っ張られた。
「あの、シン。本当にき、キスをしないと出られないのでしょうか……?」
そわそわと泳ぐ銀色の瞳に一つ頷く。
「……だと、思う。けど、どこにとまでは指定されてないし、そこまで硬くならなくても大丈夫だろう」
手や髪にするくらいでいいのであればそこまで気を負う必要もない。口にするにしたって、もう片手以上はしているのだし。
ならばさっさと済ませて部屋を出るべきなのだろうが、なんだかそれをするのも蛇の思惑通りな気がして気に食わない。念のため薄暗い部屋の中をぐるりを見回したが、監視カメラらしきものは見当たらないし、もう少しここでのんびりしてから出てもいいような気がした。
「レーナ、出ようと思えばすぐ出られるけど、少し休んでからにしないか」
「ですが、まだ仕事が残ってますし、今は勤務時間中ですし……」
「ここを出て何か言われたらヴィーカのせいにしておけばいい。レーナだって、また昨日も遅くまで起きてたんだろう。少しくらいなら、誰にも文句言われないと思うけど」
「なぜヴィーカ……? というか、なぜシンがそれを知っているんです?」
それ、というのは遅くまで起きていた方のことをさしているのだろう。彼女の副官であるペルシュマン少尉と今朝すれ違ったときにそんな話を零されたからなのだが、わざわざ言うこともあるまい。そうでなくとも彼女は働き過ぎるきらいがある。
「……とりあえず、少し座って話さないか。最近はゆっくりできてないし」
二人でゆっくり話が出来ていないのは本当だった。
ほら、となぜか用意されていた二人掛けソファに座り隣を叩く。レーナはやや不服そうにしながらも、やがてぽすんと腰を下ろした。甘やかなすみれが聞こえて、銀繻子の髪がさらりと揺れる。
「レーナが仕事熱心なのは八六区にいた頃から分かってたけど、休めるときは休んだ方がいい。倒れたりしたら大変だし、他の連中だって心配する。おれたちの女王陛下なんだから」
「もう……。分かりました、仕事が早く片付いたときは早めに休むようにします。シンこそ、夜はきちんと眠れていますか? また無理はしてませんか?」
ずい、と顔を寄せながら訊ねてくるレーナに、シンはいつかレルヒェと詰め寄られたときのことを思い出す。言わない方が周りに迷惑をかけると分かった今はなるべく言うようにしているし、無理はしていないつもりだけど。やはりまだ信用がないのだろうか。
「無理はしていないから大丈夫だ。〈レギオン〉の声を聞き続けている反動はたまにあっても、ちゃんと休んでるから」
「けど、もし辛くなったりしたら、いつでも言ってくださいね。声が聞こえてしまうのは、異能の制御ができるようになればもう少し落ち着くかもしれませんが」
いつの間にか手をぎゅっと握られていて、白銀の瞳はどこか不安げに揺れている。そんなレーナに何度か瞬いてから、シンはふ、と血赤の双眸を緩めた。
「ああ、ちゃんと伝える。……じゃあ、もし眠れない日があったら一つだけお願いしてもいいか?」
「はい! なんでしょうか?」
ちょっとした悪戯心が浮かんでそんなことを言ってみたのだが、レーナは顔をぱあっと輝かせてシンの言葉を待っている。そんなに無防備にされてしまうとそっちの方が心配になるな、とシンは内心ひとりごち、口の端を僅かに吊り上げながら白い耳介に顔を寄せた。
「レーナと一緒に寝たい」
「え………………えぇ!?」
レーナは一瞬ぽかんとなったかと思えば、真っ赤になった耳を押さえながらぱっと距離を離した。動揺しているらしく、あわあわと何も言葉にできずにいる。
その様子に、シンはくつくつと肩を揺らした。
「悪い、冗談だ」
「し、シン……!」
心配してるんですよ!? と赤らめた顔を隠しもせずぽかぽかと胸元を叩いてくるが、可愛いだけで全く痛くない。見ているとつい頬が緩みそうになるくらいには。
そうしてしばらくされるがままになっていると、レーナは突然動きを止めてじっとこちらを見上げた。次いで、銀鈴の声。
「たまになら、一緒に寝てもいいですよ」
「は……?」
今度はシンが茫然とする番だった。
言われたことを一瞬理解できず、けれど理解した瞬間に内心非常に慌てた。
一緒に寝る、ということの意味を彼女はきっと本当の意味では分かっていない。添い寝することだと思っているのだろうが、そういうつもりだけで言ったわけではなかったシンにとってその一言の威力が凄まじい。
目を見開いたまま硬直していると、レーナがくすりと笑う。
「ふふ、冗談です」
「レーナ……」
「シンがいじわるするからいけないんです」
***
そんな他愛もないやり取りを続け一時間ほど経った頃。
さすがにそろそろ出た方がいいだろうと、お互いに顔を見合わせた。
「えっと、……キス、をするんですよね」
「ああ……」
そう。すっかり話し込んでしまっていたが、今シンとレーナが閉じ込められているのは〝キスをしないと出られない部屋〟だ。だから出るためにはその通りにする必要があるのだが。
「…………」
「…………」
キスはこれまで何度か交わしたことがある。だから恥ずかしい気持ちはあれどすぐできるだろうと、レーナは思っていた。けれどよくよく考えてみれば、キスをする前に「今からキスをするぞ」なんて掛け声をしたことなどなく、二人でいるときになんとなくそういう雰囲気になって自然と唇が触れ合っているか、シンからやや性急にされるかのどちらかだ。
だからこうしていざ構えてやろうとすると、普段よりもなんだか気恥ずかしさが増すような気がする。シンもそれは同じなのか、先ほどから紅い瞳をやや泳がせている。
「で、でも! く、くくくく口にという指示ではなかったですよね!」
「あ、ああ。そうだな」
動揺を隠しきれないままレーナが言って、シンがこくりと頷く。それで落ち着きを取り戻したのか、シンは意を決したような眼差しでこちらを見た。
宝石のような真紅の双眸に見つめられ身動きが取れず、レーナは胸の前でぎゅっと手を握りしめる。とくとくと心臓が早鐘を鳴らして、全身の熱が上がっていく。
「――レーナ」
呼ばれて、骨張った手がつと伸びてくる。そのまま耳を掠めて、髪を一房掬う。絡んだ視線はそのままに、銀色の髪が彼の口元へ運ばれた。
「っ……!」
髪の感触を楽しむように、薄い唇に押し当てられる。その奥に鎮座した柘榴石が色濃くこちらを見据えて、目を逸らすのを許してくれない。
見せつけるようにしてからシンはゆっくりと顔を離し、手に取った髪をそっと元に戻しながら梳いて、白皙の容貌に淡い笑みを浮かべた。
「レーナ、真っ赤」
「だ、だって……、シンが……」
まさかあんな風にされるとは思わなかった。唇同士を合わせるより恥ずかしいことをしたような気さえする。彼の目を見る度に思い出してしまいそうだ。
レーナが涙目になりながら訴えると、シンは一瞬だけ笑みを深くしてから、顔色を改めて扉の方へ視線を向けた。
「……これで出られると思うけど」
「え、ええ……」
持ってきた資料を抱え直して、二人で出口の方へ向かう。鍵がかかっているかいないかは、ドアノブを回すまでは分からない。なんとも不親切なシステムだ。
シンがドアノブを掴む。それを固唾を呑んで見守る。
がちゃりとノブを回そうとして――途中で止まった。何度も回そうと試みるも、がちゃがちゃと音を立てるだけで開く気配はない。
「………………」
「………………」
数秒の間、二人の間に沈黙が流れる。
最初にそれを破ったのは、内圧を下げるようなシンの重々しい溜息だった。
「…………レーナ、後で上書きさせて」
「う、上書き……?」
「蛇に唆されたみたいでムカつくから」
「……」
なんだかよく分からないが、シンがとても怒っていることだけは分かる。けれど普段はなかなか見せないそんな感情がちょっぴり嬉しいなんてと思っていると。
「あっ……」
くい、と腰を引かれ、唇が重なって、反射的に目を閉じる。
触れるだけのキスが落とされて、すぐに離れた。え、と思いながら瞼を薄ら開けば、意地悪げに笑う血赤の瞳。
「足りないか?」
「…………シンのばか」
足りないとも、十分だとも言えずにそれだけ呟く。けれどそれで答えを言っているようなものだと、レーナ自身は気付かない。
そんなレーナにシンは声を出さずに笑うと、今度こそドアノブを回し扉を押し開けた。謎の密室にいたのは一時間ほどだったが、外の太陽光が少し眩しい。
「部屋まで送る。早く戻ろう」
「は、はい。ありがとうございます」
両手で資料を抱えながら、レーナは先に部屋を出る。シンも中を見回してから、片手で資料を抱えたまま扉を閉めた。間違えてまた誰かが入らないようにしたいところだが、一度部屋に荷物を置いてからでないと難しいだろう。
最上階へ向かうべく歩き始めて、レーナはちらりと肩越しに扉を見やる。やはり外から見ると、何の変哲も無い保管庫の扉だった。
その後。執務室までレーナを送ったシンは、片付けてくるとだけ言い残して早々に階下へ戻って行った。
何の片付けなのか聞きそびれてしまったが、翌日にヴィーカが珍しく寝込み、例の部屋はすっかり元通りになっていた。
end
2022.07.27 初出
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キスしないと出られない部屋に閉じ込められる。キスくらいいけると余裕ぶって小一時間のんびりしたあといざキスするときになって照れまくる。