は、と短く息を吐く。シンは心拍数が普段より上がっているのを自覚して、どうにか静めようと目を閉じた。
これを買った時は喜んでもらえるのだろうかという不安の方が強かったため緊張などなかったが、いざ渡す直前になると緊張感が高まる。
いっそ部屋の前にメモ書きと一緒に置いて行こうか……いや。直接渡せるのだから渡した方がいいだろう。訓練スケジュールで時間が合わないならともかく、今は休暇中でエルンスト邸にいるのだし、彼女だって直接渡してくれたのだから。
おそらく時間は深夜零時を過ぎたくらい。早くしなければさすがに彼女も寝てしまうだろう。明日の朝一でも良かったのかもしれないが、……なんとなく、渡しているところを誰かに見られるのは嫌だった。
再び息を吐いてから、シンの隣の部屋の扉を小さくノックした。返事がなければ戻ろうと思う間もなく、中から「はい」と声が聞こえる。
「遅くにすみません、レーナ」
「シン?」
ぱたぱたと足音がして、そっと扉が開いた。
当然だが就寝準備はとっくに済ませているらしく、私服よりも更にラフな、膝丈までのネグリジェ姿にどきりとする。
「どうされ……わっ!」
レーナは扉を開けた瞬間、シンの腕にあるそれを視界に入れると同時に小さく声を上げた。さすがに後ろ手に隠しきれる大きさではなかったため片腕で抱えたままでいたのだが、彼女の新鮮な反応にシンの緊張も少し解け、白皙に微笑が浮かぶ。
シンは両手で差し出しながら口を開いた。
「誕生日おめでとうございます、レーナ」
その言葉に白銀の双眸がぱちぱちと瞬き、ついで破顔した。
「ありがとうございます……!」
シ ンの片腕でようやく抱えられる大きさの花束。それをレーナは両腕で受け取って、抱える。花びらが八重に重なる大輪のトルコキキョウ。薄紫色のそれはきっと彼女に似合うだろうと選んだものだったが、想像以上だった。
ぎんいろの瞳はうっとりと細められ、花びら一枚一枚を愛でているようにも見える。その様子は彼女の格好や美貌とも相まって、どこか儚い。
「こんなに立派な花束……とっても嬉しいです。本当にありがとうございます、シン」
「いえ。喜んでもらえたなら良かった」
「これは……レイナという品種ですよね。ふふ、わたしの名前に似ているから選んだのですか?」
「……それもありますが、」
花を贈ったのは、ただ純粋に贈りたいと思ったからだった。
シンの誕生日にも彼女から花を貰っていたため同じ花で返すのもどうかと思ったが、街に出てプレゼントを探している時に見かけたこれを見て、……後で調べた花言葉を知って、贈りたいと思ったから。
人の下劣さを、世界の醜さを知ってなお見限らず、きっと美しくやさしくあれると未来信じ続ける彼女に似合うと思ったから。まだ、シンには世界が美しいとは、愛せるものだとは思えないけれど。彼女には相応しい花のように思えたから。
海を、見せたいという望みに対する希望も少しだけ添えて。
――もっとも、さすがのシンもそこまで口にするのは少々気恥ずかしいため、言うつもりはないのだが。
「七月十二日の誕生花の一つが、トルコキキョウだったので」
「そういえば、そうでしたね。……ふふ、お部屋で大事に飾りますね。あとで花瓶を買ってこないと」
「ああ、それなら……」
足元に置いていたラッピング済みの箱を持ち上げる。
「これ。……レーナの執務室にはたくさん花瓶がありますが、ここにはないと思って」
「花瓶までいただいてしまっていいのですか?」
「おれがあげたかっただけなので。もしいらなければ処分していただいて構いません」
シンの言葉に、レーナはふるふると勢い良く頭を振った。
「そんなことしません! シンが選んでくれたものですから、大切にします。休暇が終わって基地に戻るときにも持って行きます」
だからそんなことを言わないでくださいと、柳眉を僅かに逆立てるレーナにシンは苦笑する。同時に、自分が選んだものだからという彼女の言葉嬉しくて、逆にプレゼントを貰ったような気持ちになった。
「そういえば、明日の夜……日付が変わったので今日の夜ですが、みなさんでお祝いしてくださるんですよね」
「ええ。エルンストも必ず時間までに仕事を引き上げてくると言っていましたし、ペンローズ少佐も呼んだらしいですよ。ライデンとアンジュとテレザも、ご馳走をたくさん作ると言って張り切ってました」
「昼間に食べたいものはないかとたくさん訊かれました。みなさんお料理が上手なので、とっても楽しみです」
花の向こうでくすくすと笑ってから、白銀の瞳がどこか照れ臭そうにシンを見た。
「……アネットは毎年祝ってくれていたのですが、こんなに大人数でお祝いされるのは幼少期以来なので、少しくすぐったいですね」
はにかむような微笑に、シンの心臓がどきりと跳ねる。
自覚する前であればやり過ごせただろうが、レーナに対する気持ちを自覚した今となってはそれもできない。油断すれば手を伸ばしそうになって、けれどそれで拒絶される可能性があることを考えて、僅かに眉間を寄せることでなんとか思い留まる。
代わりに、速まる鼓動を落ち着かせるために小さく深呼吸して、銀色の瞳を真っ直ぐに見つめてから、シンは口を開いた。
「来年もまた、みんなでお祝いしましょう。――今度は、戦隊員全員で」
声を掛けたら、きっと隊員たちはこぞってあれやこれやと祝うに違いない。エイティシックスたちから愛された、自分たちの女王陛下のためなら。
柘榴石の瞳を色濃くしながら淡く笑むシンに、レーナは心の底から嬉しそうな眩しい笑顔を見せた。
――この笑顔を、ずっと傍で、一番近い場所で見ていたい。
そんなことを思って、それが妙に引っかかった。
ずっと? それは……いつまで?
この戦争が終わって、共に海を見て、共に笑い合って、それから――――。
それから、おれはレーナとどうしたい……? どう、ありたい……?
考えて、それは自然と胸の裡で強く湧いた。新たな望み。
彼女への想いを自覚して、ただそれだけではない。自覚したからこそ、更に共に先に進むためにも。
レーナと一緒に、いたい。一緒に、生きたい。一緒に、――できるなら、いつまでも。
「……シン?」
銀の鈴の音が、沈思した意識を引っ張り上げた。そこまで考え込んでいたつもりはなかったが、レーナが窺うような表情を浮かべる程度には耽っていたらしい。
苦笑しながら、なんでもないと首を振る。いつか言葉にしなければいけない、言葉にしたい感情だ。けれど今伝えるのは違うだろうし、そんな勇気もまだない。
だから花瓶の入った箱だけレーナの室内に置かせてもらい、そろそろ部屋に戻るとシンが告げ、一歩足を引いたと同時。
「――シン!」
思いのほか大きな声が出てしまって、自分で少し驚いた。目の前にいるシンも珍しく僅かに血赤の双眸を瞠っている。
咄嗟に呼びかけたのはいいが、次に何を言えばいいのか迷った。今の気持ちを全て伝えようとすると、きっと時間が足りなくなってしまう。それくらい心が温かくなって、なにより、シンがこうして祝ってくれた気持ちが嬉しい。
だから伝えたい。自分の言葉で、きちんと。
それからしばらく視線を彷徨わせて、レーナはようやく白皙の面を見上げた。
「その……、最初にあなたにお祝いしてもらえて、嬉しかったです。こんな時間まで、待っててくださりありがとうございます」
結局口にできたのはそんな拙い、ありきたりな言葉でしかなかったけれど。シンにはきちんと伝わったらしく、柘榴石の瞳が柔らかく笑った。
「……いえ。おれがやりたかっただけなので。それに、」
言いさして、シンは言葉を探しているらしい。今まではきっとそこまで考えることのなかった自分の気持ちに、少しずつ整理をしているような。ここ最近の彼の変化の一つだった。
「――レーナに喜んでもらえて、おれも嬉しかったです」
静謐な声はいつになく穏やかで、優しい音が鼓膜をくすぐった。表情変化の少ない白皙が、最近見る中では一番、言葉通り、嬉しそうに笑みを見せる。
滅多に見ないその表情にレーナも内心どきりとしながら、ふわりと微笑み応えた。
シンとこうしている時間が楽しくて、嬉しくて、ついつい終わらせたくない気持ちが湧いてしまうが、さすがにあまり引き止めても悪い。後ろ髪を引かれるような思いの中、レーナはそろそろ……と口を開く。
「……では、ゆっくり休んでくださいね」
「ええ、レーナも。……私室で薄着なのは構いませんが、布団はきちんと掛けて寝てください。風邪を引いては明日の楽しみもなくなってしまうので」
「そっ、そんなに寝相は悪くありません……!」
普通の夏用のネグリジェで最初はなんとも思っていなかったのに、シンにこの格好のことを言われてなぜか突然恥ずかしくなってきた。顔が熱いし、シンはくつくつと笑っている。揶揄われたのだと分かってむっと唇を尖らせるが、すぐに彼の表情につられて笑みが零れてしまった。
「もう……。では今度こそ、また明日。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
隣の部屋に戻るシンの背中を見送ってから、レーナも自室へ戻る。扉をそっと閉めてから、花束をぼうっと見つめた。
トルコキキョウの花言葉は〝感謝〟。紫色となると〝希望〟の花言葉があったと記憶している。
数週間前の、シンの言葉。
――おれは、貴女に海を見せたい。
思い出して、頬がじんわりと熱を持つ。心臓が大きく脈打って、制御が効かない。花束がなければ、淑女の嗜みなど忘れてベッドに飛び込みごろごろ転がっていたかもしれない。
シンが花言葉まで知っているかは分からない。だから自意識過剰かもしれないけれど、もしあの言葉に対する希望の意も込められているのならいいなと、思いを馳せながら。
レーナは大事に大事に、壊れ物を扱うかのように花束を抱え、そっと色白の瞼を閉じた。
西洋におけるトルコキキョウの花言葉:「感謝」「穏やか」
紫色のトルコキキョウの花言葉:「希望」
レイナ:スペイン語で「女王」の意味
end
2022.07.12 初出