日課のロードワークから戻り、共用バスルームでシャワーを浴びてから、濡れた髪のまま自室へ。
コーヒーでも飲もうとポットでお湯を沸かす間。バスタオルで乱雑に頭部の水気を取っていると、コンコンと控えめなノックが聞こえた。
まだ朝食までに時間がある。こんな早朝から誰だろうかとシンは疑問に思いながら応答した。
「はい」
「あの、わたしです。今よろしいでしょうか?」
「レーナ?」
おそらく普段のレーナはまだ身支度でもしているだろう時間。この時間に彼女が訪ねてきたのは初めてのことだった。普段よりやや声が硬いのも気になる。〈レギオン〉の声は遠いが、何か緊急性の高い用事があるのだろうか。
そんなことを考えながら扉を開けた瞬間、ふわりと花の香りがした。聞き慣れた菫に、なぜか知らない香りが混ざっている。
「おはようござい――――ひゃっ!? す、すみません着替えの途中でしたか!?」
白磁の頬を真っ赤にするレーナに、そういえばシャワーを浴びたばかりでまだタンクトップだったとシンは思い出す。
「おはようございます。いえ、まだ時間があったので軍服を着ていないだけです。……ああ、着替えた方がいいでしょうか?」
「い、いえ! すぐに終わりますので!」
軍規的にという意味の問いだったのだが、どうやらレーナの懸念はそこではないらしい。
「何か急用が?」
「急用というほどではないのかもしれないですが、……最初に言いたかったので」
レーナは後ろ手に何かを隠したままこほんと一つ咳払いして、ふわりと微笑んだ。
「お誕生日おめでとうございます、シン」
「――――……」
言われた言葉を頭の中で反芻する。たんじょうび……誕生日……。
耳馴染みのない、久しく聞いていなかった言葉。最後に聞いたのはいつだったのかも思い出せない。
「もしかして、忘れていましたか?」
「…………そういえば、以前事務担当から通達がきていましたね」
「もう……」
シンが覚えていないことは予想の範疇だったらしく、やっぱりそうでしたかとレーナは困ったように笑った。
八六区では毎日が死と隣り合わせで、いつが誕生日だとかそんなことを気にしている余裕などなかった。
――いや。戦場でそんなものは必要なかったから。八六区を戦い抜くのに知らずとも特に支障はなかったし、一年の始まりにまた一つ年齢を重ねたかと思えたらまだいい方だった。だから誕生日というものがあることすら記憶から抜け落ちていたし、レーナにこうして言われなければ今日がその日だということも忘れたままだっただろう。
「あの。男の人が喜ぶものが分からなかったので、もしかしたら気に入らないかもしれませんが……、プレゼント、です」
迷惑かもしれませんが、と繊手から差し出されたのは赤いリボンでラッピングされた掌サイズの箱と、小さな花束。細かな花びらがいくつも集まった、白いリラの。――それで、最初に感じた香りの正体をようやく知った。
「……花を供えて、と貴方には言われていましたが。供えるのではなく、こうして直接渡すことができて嬉しいです」
レーナの言葉に、シンは目を瞠った。
――いつか、おれたちが行き着いた場所まで来たら
本当に見つけてもらえるかなど分からない。けれど彼女ならきっとここまで来るという根拠のない確信があった中で、残した紙の切れ端。当時はふと思いついただけの一文だったが、今思い返せば生きて欲しいという願いを込めたものだった。
彼女が生ききった先にもう自分たちはいないはずだったから。生き抜いて、もし自分たちが辿り着いた場所まで来たら。花を供える程度のささやかさでいいから、忘れずにいてくれたらと思って残したメモのような手紙。
それを、今も彼女は大事にしてくれているのだと思うと、また救われたような気がした。
――――半年前の篝花の野でも、今も。彼女には救われてばかりだ。
銀色の瞳を細め、頬を柔らかく緩める少女。銀繻子の髪が華奢な肩から溢れて、さらりと揺れる。手元にある花束も相まって、まるで一つの絵画を思わせた。
汚れを知らないかのような白さが少しだけ眩しくも見えて、シンは血赤の双眸を細める。きっと自分が触れていいものではないけれど、目が離せないと思ったのも事実。だからそこから逸らさぬままに、浮かんだ言葉をそのまま紡いだ。
「――――ありがとうございます、レーナ。おれも……嬉しいです」
それだけを発するのになぜか緊張したが、なんとかつっかえることなく音にする。
ほっと胸を撫で下ろしたレーナの手中にあるものを受け取ると、菫とは違う、けれど優しい香りが鼻腔をくすぐった。腕の中にある可憐な花がまるで笑った彼女のようだとふと思い、次の瞬間にはどうしてそんなことを考えたのかと首を傾げそうになる。
しかし思っていることが表情に出にくいことが幸いし、レーナはそんなシンに気付かない。それどころか、どこかお説教じみた口調で言った。
「でもシン。自分の誕生日なんですから、それくらいは覚えていてもいいと思います」
「正直、興味がないので約束はできません。……けど、レーナが代わりに覚えていてくれるなら、おれはそれで十分です」
シンが冗談半分のつもりで言うと、レーナはふふ、と銀鈴の声を鳴らした。
「じゃあ、シンの代わりにわたしがしっかり覚えておきます。だからまた来年も、お祝いさせてくださいね」
「――ええ。楽しみにしています」
来年、という言葉をどこか遠くに感じる。
それでも。覚えていてくれるならそれでいい。――きっと、彼女なら忘れずにいてくれるだろうから。
そう思って、シンは穏やかな笑みを作った。
西洋におけるリラの花言葉:「誇り」
白いリラの花言葉:「若者の純潔」
end
2022.05.19 初出