雨季が過ぎ、けれどすっきりとした晴れ間の見えない曇天のある日。伊奈帆は丸みを帯びた四角いそれを片手にぶら下げ、スレインのいる収容施設にやってきた。
面会室に入るなり、どん、とそれを机上に置く。
「許可が下りたから持ってきた」
青緑色の瞳が瞬く。
「……なんですか、これは」
「ラジカセ。電波を受信してニュースが聞ける」
「それは分かっています。どうしてこんなものを」
訊ねるスレインに、伊奈帆は視線を合わせないままラジカセをセッティングしていく。物のない、広すぎる面会室の中に、がちゃがちゃと今までしたことのない音が響いた。
「外の状況も知りたいかと思ったんだけど」
「僕には関係のないことです」
「アセイラム姫のことでも?」
「…………」
スレインは視線を落として、無意識に胸元のペンダントを握った。チェーンがちゃり、と僅かに音を立てる。
それから吐き出すように言った。
「……今はもう、関係ありません。姫が――女王陛下がお元気なら、それで」
ぴ、と、ラジカセから電子音が発せられた。どうやら電源を入れたらしい。
スレインは呆れ交じりの溜息を吐いた。
「本当に貴方は人の話を聞きませんね、界塚伊奈帆」
「興味がありそうだったから」
興味があるかないかと訊かれたら、あるに決まっている。
世界中を飛び回って火星騎士たちの説得をしているとは以前聞いたが、いったいどこの国にいるのかとか、体調は問題ないかとか、少しは休めているのかとか――。
そこまで考えて、ふっ、と内心自嘲した。一度は姫を利用した身で、いったい何を考えているのか。
争いのない、姫にとって幸せで平和な世界を実現するためとはいえ、〝アセイラム姫〟という存在を利用した。だから今更、彼女の身を案じる権利などないだろうに。
そうこう考えている間にも、ラジカセから発せられるキャスターの声は淡々とニュースを読み上げていく。
『――続いてのニュースです。ヴァース帝国女王、アセイラム・ヴァース・アリューシアは、現在も地球に残った火星騎士の説得を続けておりますが、依然として難航している模様で――……』
「……女王陛下は、今も頑張っておられるのですね」
「ああ。ニュースで聞く限りでは、ずっとこんな調子だ」
まるで鳥みたいだ、と以前伊奈帆は口にしていたが、本当にその通りだ。渡り鳥のように世界中を飛び回って、騎士たちを説得して。――地球とヴァースの、そして人類の平和のために。
スレインが実現するまでもなかった。
守ろうとしたものはいつも最後まで守りきれなくて。実現しようとしたものも結局そこには至らなくて。
姫は。――姫たちは、スレインが思うよりもずっと強い人だった。
……そういえば、アセイラムには会えていないと、伊奈帆が言っていたことを思い出した。つまり、この国には来ていないのだろうか。
「アセイラム姫は、この国に来たことはないのですか?」
「いや、一度だけある。アルドノア一号炉が建設された、その式典の時に。でも、僕は関係者じゃなかったから会っていない」
ここに来る用事もあったしね。
言いながら、伊奈帆はラジカセを見つめたままじっとニュースを聞いている。
「…………貴方は、アセイラム姫に、会いたいと思うことはないんですか?」
ぽろりと、なんとなくずっと考えていたことが零れた。声は張っていないはずなのに、広すぎる面会室の中でやけに反響して聞こえた。
すると伊奈帆はおもむろにラジカセの電源を切って、こちらを向く。
突然訪れたいつも通りの静寂に、なぜか緊張したような心地がした。
いったい伊奈帆は、アセイラムをどう考えているのだろう。スレインは少し身構えた――のだが。
「特には。君こそどうなんだ、スレイン・トロイヤード」
あまりにあっさりした返答に、拍子抜けしそうになる。しかしそれよりも返された質問に、スレインは苦笑した。
「はっ……会えるわけがないじゃないですか。一度は姫を利用しようとして、今更どんな顔をすればいいのか……」
それに、今は囚われの身。表向きは死んだことになっているらしいから、堂々と外を歩くことも難しいだろう。
それを彼も、分かっているだろうに。
スレインが疑問を口にするより前に、伊奈帆が言った。
「……渡り鳥は、一度訪れた土地をいつか再び訪れるんだ。だからもしかしたら、空を見上げた時に見えた渡り鳥は、以前見た渡り鳥と同じ個体かもしれない」
焦げ茶色の瞳と、視線が合う。
「……そんな時が、来るんでしょうか」
「さあ。君次第じゃないかな」
相変わらず無表情にも見えるが、よくよく見ればほんの僅かに口角を上げている伊奈帆に、スレインはふっと表情を緩めた。
収容施設の外。曇天の隙間から、一筋光が射した。
end
2025.04.04 初出