涙の跡が残らぬように

 腕の中ですぅすぅと小さな息を零す少女に、男は自らの口元が緩むのを感じた。
 まだ大人になりきれない彼女の表情はどこかいとけなく、色っぽい、というよりも愛らしいという言葉の方が似合う。
 普段の彼女からは想像もつかないほどあまりに無防備。けれど、こんな姿を見ることができるのは自分だけだと思うと、どこか優越感を覚える。
 髪を解いた姿も、ゆったりとしたネグリジェを纏っている姿も、時折零す寝言も、全て自分だけのもの――。
「……フッ」
 つい乾いた笑みが零れて、いやいや笑っている場合ではないと顔を引き締める。
 再び小さなかんばせを覗き込み、寝入る前よりは幾分か血色の良くなった顔色に、アーチャーはそっと胸を撫で下ろした。こういうとき、夜目が利くというのはつくづく便利だ。
 
 
 
 ――アーチャーがどこか違和感を覚えたのは今朝のことだった。
 普段より十分ほど遅れて起きてきた凛。珍しく制服を先に着てきたかと思えば、どこかぼんやりとしたまま紅茶を口にして、学校へ向かう頃には空になっている筈のカップは、その中の三分の一くらいが赤茶色の水面に覆われていた。
 凛が朝に弱いのはいつものことではあるが、紅茶を残したことなど一度もない。活力で満ちている筈のレイラインもどこか弱々しいものに感じ、アーチャーは思わず眉を顰める。
 けれど「具合が悪いのではないか」と訊ねれば、いやいやと凛は頭を振るばかり。おまけに、魔術刻印の不調が今回は酷いだけだから薬を飲めば大丈夫だと言われてしまい、アーチャーは反論する術を持ち合わせてはいなかった。
 もし悪化するようなことがあれば早退するか、自分を呼んで欲しいとだけ伝え、どこか頼りない背中を送り出したのだが……。
 帰宅時間を二十分過ぎても帰って来ず、さすがに何かあったのではとレイラインへ呼び掛けながら外に飛び出してみる。と、屋敷のすぐ側で今にも倒れそうになりながらなんとか足を進める凛の姿。体調のせいか今朝より感じられる魔力もとても弱く、これほど近くにいたのにどうりで気付けないワケだとアーチャーは思わず舌打ちした。
 思えば、違和感に気付いた時点でもっと食い下がっていれば良かったと後悔の念が押し寄せる。凛の大丈夫だという言葉を信じ、もしものときは駆け付けようなど――それでは遅いというのに。
 けれどそんなのは後の祭りで、今更どうこう言ったところで時間を巻き戻すことなんてできない。
 アーチャーは凛を抱え急いで屋敷に戻ると、部屋へ連れ着替えを渡し、消化のいいものをとお粥を作り……とにかくできる範囲で凛の看病をした。地下に遠坂秘伝の風邪薬があるからと指定された物を持ってきたときは、小瓶のあまりに毒々しい色合いと臭いに更に眉を顰めたものだが。
 ともあれ、そんなこんなでその薬を飲んでからは徐々に容態も落ち着いたようで、レイラインから感じる魔力も少し安定し、帰宅時に残したおかゆを平げた後はゆっくり寝るだけ。――の筈だったのだが。
「……アーチャー、わたしと一緒に寝てくれる?」
 病気のときの心細さというヤツか、凛はやや遠慮がちにそんなコトを口にした。体調が問題ない日であればそういうコトを煽られているようにしか聞こえないが、今回はただ単に一緒にいて欲しいだけだろう。
 けれど、凛は自分でも何を言っているのだろうと思ったのか。間もなく「やっぱりなんでもない」と頭まですっぽり布団を被ってしまった。
 アーチャーでも滅多に見ることのない、年相応よりもやや幼い甘え。誰でもない、自分だけに向けられたそれを嬉しいと思えど、嫌だと思うパートナーがどこにいるだろう。
 被ってしまった布団の上から柔らかくぽん、と手を置くと、アーチャーは微笑を携えながら言った。
「幸い、サーヴァントは風邪を引く心配がない。だからもし、君が許してくれるのなら暖でも取ろうかと思うのだが」
「そ、そんな言い方されたら……断れないじゃない……」
 布団の端からジロリと青い瞳がこちらを睨む。しかしすぐに布団の端を一人分空けて、入るなら早く入りなさい、と視線だけで訴え始めた。
 そんな凛にアーチャーはやれやれと呆れつつも、素早く部屋の明かりを消し、黒い私服のまま少女の隣へ体を横たえる。ベッドのスプリングが僅かに軋む音を聞いてから、アーチャーは腕を伸ばし華奢な体をすっぽりとその中に閉じ込めた。まだ微熱があるせいか、いつもより体温が高い。
 アーチャーは思わず眉を寄せ、早く下がるようにと小さな背中を何度か撫でていると、凛がくいっと顔を持ち上げこちらを見つめた。薄闇の中で見えるサファイアの瞳は、どこか拗ねているようでもある。
「あんたは、わたしを甘やかしすぎよ。別にイヤってわけじゃないけど……こんなんじゃダメ人間になりそう」
「たまにはこんな日があっても良かろう。それに、この程度のことで君はダメ人間になどならんよ」
 遠坂凛はいつだって真っ直ぐ立って、前を見続ける。少しでも可能性があるのならそれを可能としてしまうほどの力を発揮して、周りを巻き込んで更に先へと突き進む。そう……アーチャーにとってとても眩しくて、英霊となった今でも本来は手の届かないような場所にいる少女。戦闘力があるだとか、魔術に長けているだとか。そういうものではなく、性質の問題だ。
 結局、生前も今も、アーチャーが惹かれたのは彼女のそういった強さだった。自分にないものをたくさん持っているのに、自分がしたかったことを当然のようにこなしてしまう彼女の姿に見惚れた。もっとも、年相応の少女らしさや初々しさが彼女の中にもあることを知ってからは、ますます愛しいと思うようになったのだが。
 だからこそ、こうして隣にいることを、自分の腕の中に閉じ込めておくことを許されたこの関係を、アーチャーは尊いものだと感じている。召喚されたことだけでも奇蹟だというのに、ただの主従関係を越え、その先に二人で立っていることができるなど、夢のまた夢のようだった。
「……何か言いたそうにしてるけど、本当にそう思ってる?」
「もちろん。凛に嘘をついたところで、すぐにバレるだろうからね」
 長い黒髪を梳きながら片目を瞑ってみせれば、少女は「う……」と言葉を詰まらせた。
「そりゃ、わたしだって魔術師として、遠坂の家を継ぐ者として相応しい人間であれるように、今までもこれからも振る舞う。なにより、わたし自身がそうでありたいから。……けど、あんたに甘えることを知ってしまったら、今まで通りにできないんじゃないかって、時々不安になる。――って、何言ってるのかしら、わたしってば」
 いつもこんなこと口にしないのに、と弱々しく眉を下げ「なんでもないから忘れなさい」と続ける凛に、アーチャーは力強くその腰を引いた。
「ちょ、ちょっと……っ!」
「いくらでも甘えたらいい。君が死ぬまで共にいるのだから、もしもこれまで通りにいかないというのであれば私がフォローしよう。なに、そういったことには慣れているさ」
「…………ばか。でも、ありがと。期待してるから」
 不安定に揺らいでいた瞳がゆっくりと瞼の奥に隠され、表情にも穏やかさが戻る。それで安心しきってしまったのか、アーチャーが再び濡羽色の髪をそっと指で梳き始めてすぐに、小さな寝息が聞こえてきた。
 
 
 
 ――――そうして二時間ほどが経過し、今に至る。
 節くれだった指でそっと髪を掬い、撫でて、くるくると弄んで、時折口付けて。凛がもし起きたら照れ隠しに怒るだろうかとも思ったが、よほど深く寝入っているらしく起きる気配は微塵もない。
 二時間もこうして寝顔を眺めながら少女に触れていたが、それでも全く飽きないのだがら我ながら重症だとアーチャーは苦笑を零す。
「それもこれも、君が愛らしいからなのだがな」
 髪に触れていた手を移動させ、柔らかな頬をふわりとひと撫で。それからゆっくり離れようとすると、凛の小さな手がアーチャーのそれをぎゅっと掴んだ。起こしてしまったかと思ったが、どうやら無意識らしくまだ目は閉じられている。
 けれど安心したのも束の間。凛の睫毛の先に僅かに光るものが見えて、アーチャーは思わず鈍色の双眸を見開いた。
「アーチャー……」
 行かないで。
 そう聞こえたのは都合のいい幻聴か。それとも――――。
 アーチャーはふっと表情を和らげると、握られたままの手にそっと力を込め、小さな額へ自らのそれをこつんと当てた。
「私はどこにも行かないよ。だから、安心して早く風邪を治すといい、凛」
 零れそうになった涙をそっと唇で掬う。彼女が朝起きた時、涙の跡など残らないように。いつもの強がりで、自信たっぷりな凛にでいられるように。
 自己満足でしかないかもしれないが、少女が元気になるまではたっぷり甘やかそう。アーチャーはそう心に決め、目尻の雫を消すように何度も口付けた。

end
2021.07.03 初出