大学の研究室で夢中になっていると、外に出た頃にはもうすっかり日が暮れ、上空では星々が瞬いていた。それを見た途端、疲労の波がどっと押し寄せ、大きな溜息となる。同時に、真っ白な息が前方に広がる。寒さを感じ、ぶるりと全身が震える。
「さぶ……っ」
ブルブルしながらもいつものように《オーグマー》を頭につけ、ダウンのポケットに手を突っ込み家路を歩く。
「ユイ、いるか?」
「はい! お疲れ様です、パパ!」
呼びかけると、可愛らしい声と共に小さな妖精の愛娘が現れた。仕舞ったばかりの手を出しそっと指先を伸ばすと先へちょこんと座り、目が合うと嬉しそうに微笑む。こんな些細なことでさえ、ますます明日奈に似てきたなあと思う。
反射的に左手で小さな黒い頭をそっと撫でながら、俺はすっかり習慣になってしまった一文を口にした。
「ママから何かメッセージ来てるか?」
「いえ、今日は何も来てないです。その代わり、今はパパのお家にいるそうです」
「そっか……って、えええぇぇ!?」
大学に入って一人暮らしを始めた俺は、合鍵を恋人である明日奈に渡していた。だからいつ俺の家にいてもおかしくはないのだが、今日まで家族と旅行に行っていたはず。明日奈も昨日のメッセージでは「明日の夜には帰ってるから」と言っていたし、てっきり夜帰ってくるものだと思い込んでいたが……。
「予定より早くこちに戻ってきたようです。パパが帰ってくるのを待ってるって言ってました」
ユイの言葉に、歩く速度が自然と上がっていく。オーグマーの隅に表示されている現在時刻は午後九時十八分。ユイの言う《予定より早く》が何時だったのか解らないが、あまり家で待たせたくなかった。
――いや、早く明日奈に――。
大学から徒歩十五分はかかる道のりを十分で歩き、息をつく暇もなくやや乱暴に鍵を開けた。玄関の扉を引くと隙間から白い光が漏れ、中にまだ明日奈がいることはそれだけでも明白。ユイと一緒に一メートルほどしかない廊下を五歩進み、リビングへと続く扉のドアノブを回した。
途端、ふわりと食欲をそそられる匂い。今になって空腹を覚え、鳴りそうになる腹をさすりながら足を踏み入れると、すぐにそれが視界に入った。
「明日奈……?」
八畳間の隅に置かれたダイニングテーブルと椅子。そこに栗色の髪がさらりと流れている。足音をなるべく立てぬよう近付くと、腕を枕にしながら小さな寝息を立てる恋人の姿。机に伸びるほっそりとした指先の近くには、オーグマーと読みかけの本。
「……ママ、眠っているみたいです」
「ここに来る前まで旅行行ってたんだし、こんな時間だからな…………」
顔にかかる髪をそっと耳にかけると、不安そうに眉を寄せている寝顔が現れた。旅行先で何かあったのだろうか。それとも、体調が悪いのだろうか。
部屋の暖房は付いているが、夜中の外気温は平気でマイナスになるような季節。肩にカーディガンを羽織っていてもこれでは寒いだろうし、寝ている間に風邪を引いていてもおかしくはない。
起きたら話を聞くとして、俺は近くにあるベッドから毛布を引っ張り出し、起こさぬようにそっと肩からかけた。のだが――
「ん……」
小さな吐息が聞こえ、反射的に体がビクッと固まる。やっぱりこれはお約束的展開なのだろうか……と頭の隅で考えていると、毛布の下で華奢な体が身じろいだ。
「ん〜……あ、キリトくん……おかえりなさい」
「ただいま。ごめん、起こしちゃったな」
「ううん、わたしこそごめんね。帰ってくるまで起きてるつもりだったんだけど、いつの間にか寝ちゃってたみたい」
微睡みから醒めた明日奈はふわっと小さくあくびを漏らし、眠そうに目を擦る。普段のしっかりした彼女からは想像もつかないほどふんわりとした愛らしさに思わず口元が緩み、栗色の髪をそっと梳いた。
最初はそれに身を委ねていた明日奈も、俺の頭にあるものに気付いたらしい。
「ユイちゃんもいるの?」
「ああ」
ここに、と明日奈の頭の上あたりを指すと、頬を赤らめながら自らのオーグマーを頭へ装備。すぐに小さな妖精の姿が見えたらしく、ユイへにこりと笑いかけた。
「おはようございます、ママ」
「おはよう、ユイちゃん。パパに伝えてくれたの?」
「はい! ママがお家で待ってますって言ったら、パパ早足で帰ってきたんですよ」
「お、おい、ユイ……」
そうなの? と言いたそうに視線をこちらに向ける明日奈。俺は指先で頬を掻きながらこくりと頷く。
「いや、あんまり待たせたくなかったから……」
「突然お邪魔しちゃったし、わたしが待ちたかっただけだから気にしなくていいのに」
「いや……でもさ……」
「もう、パパ!」
愛娘は突然割り込むと、俺の眼前で腰に両手を当てた。怒っている表情まで明日奈に似てきたような……。
「ママにちゃんと言わないとダメですよ! わたしはそろそろ眠るので、お二人でちゃんとお話ししてください」
「あ……」
とっさに引き止めようと手を伸ばすも、オーグマーで見ている状態ではユイに触れられない。小さな妖精は一瞬で消え、手は空気だけを掴んだ。
――いったい誰があんなことを教えたんだ……。
妙なところでいつも気を遣わせている気がするなあと苦笑していると、くいっとダウンの端が引っ張られた。そちらを向けば、心配そうな色を浮かべるヘイゼルの瞳。
心配しているのはむしろこっちだが、ユイにああ言われてしまえば仕方がない。俺は安心させるように、栗色の頭をぽんぽんと撫でた。
「大丈夫だよ。ただ、その…………」
「その……?」
明日奈は先を促すが、どうにも言い出しづらい。あーうーと五秒ほど唸ってから、椅子に座ったままの明日奈の膝裏と背中へ腕を伸ばし、そのまま抱き上げる。
「わわっ!」
明日奈の腕がしっかり俺の首へ回ったことを確認してから、数歩下がった位置にあるベッドへそっと下ろし、そのままぎゅっと華奢な体を腕の中に閉じ込めた。髪に顔を埋め深く息を吸えばずっと求めていた香りが鼻腔をくすぐり、体の中の何かがじんわと溶かされて行く。
しばらくそうしていると、明日奈の手が俺の背中をふわりと撫でた。それに押されるようにして、喉元まで出かかっていた言葉を音に変える。
「明日奈……ずっと、逢いたかった…………」
掠れて小さくなってしまった声は、けれど明日奈の耳にはきっちり届いたらしい。手を止めると、引き寄せるように背にある両手に力が籠められた。次いで、囁き。
「……わたしも。キリトくんに逢いたかった」
俺の胸元に小動物のように擦り寄ると、言葉を続ける。
「あのね、久々に家族旅行ができて楽しかったの。中学に通うようになってからは家族が揃うことの方が少なかったし、今になって行けると思ってなかったから。でも……」
――でも、キリトくんに会えないのが、少しだけ寂しかった。
最後は暖房の音に掻き消されてしまいそうなほど小さな声だったが、しっかりと俺の耳に届いた。口元が緩むのを感じながら、華奢な体を抱きすくめる。
明日奈が旅行に行っていた期間は五日間。ほぼ毎日メッセージのやり取りはしていたし、電話だって一回した。明日奈が楽しそうにその日のことを話しているのを見て、両親とうまくやっているんだと思うと俺も嬉しかった。
けれど明日奈が帰ってきてすぐ会える場所にいるのだと知った途端、自分の中のどこかに眠っていたはずの〝彼女に逢いたい〟という気持ちが溢れ出した。直接こんなことを言うのは少々恥ずかしさがあるが、彼女の言葉を聞いて、温もりを与えられ、同じ気持ちでいてくれたことに喜びを覚える。
長いようで短い抱擁の後、僅かに離れた距離がどちらからともなく再び近付き、触れた唇からいくつもの気持ちが行き交う。啄むだけだったものが、徐々に深さを増す。繋がれた右手と左手に、力が籠もる――。
「んっ……はっ、キリトくん、待って……」
一瞬だけ離れた隙に、俺の唇に人差し指が当てられた。
「あのね、夕飯作ったの。だから、食べてからにしよ……?」
――だから部屋に入ったとき美味そうな匂いがしてたのか。
実に魅力的な提案ではあるし、このままそちらに気を取られれば腹の虫が鳴きそうだ。けれど、いまのこの状態でお預けを食らってしまうのもなんだかなあと思う。
「……明日は休みだろ? 一時間くらい遅くなっても問題ないよ」
「……せっかくブラウンシチュー作ったのに」
続きを……と思っていた俺の体がピタリと停止。明日奈が口にした言葉を脳内で反芻。そこでようやく本日のディナーを理解し、同時に、待ちくたびれたとばかりに腹が情けない音を立てた。
「ぷひゅっ」
とは、明日奈が吹き出した音。
「もう、やっぱりお腹空いてるんじゃない」
「だ、だってさ~~」
カレーだってオムライスだってハンバーグだって好きだが、懐かしい思い出と特別な思い出が詰まったブラウンシチューが夕食だと言われてしまえば、空腹に抗うことは難しい。
俺はまだ可笑しそうに肩を揺らす恋人――否、シェフの唇に自らのそれを軽く触れ合わせ、おでこ同士をくっつけた。
「前言撤回します。やっぱり先にシチューを所望します、シェフ」
「ふふ、任されました!」
ほわんほわんとした笑顔を見せられ、心臓と腹が同時に鳴った。
end
2018/12/10 初出
2018/12/30 加筆