ふと瞼を持ち上げると、まだ薄暗い部屋の天井が目に入った。一瞬どこにいるのだろうかと思考を巡らせ、すぐに東京都世田谷区にある家の自室であることを思い出す。
仮想世界に囚われていた間、両親が勝手に最新技術を取り入れたここは、まだ〝自分の部屋〟と呼ぶには少々違和感を覚えた。部屋が暗いときに入れば勝手に電気が点くし、クローゼットの前に立てば勝手に扉が開く。――便利なのかもしれないが、どこか無機質で、冷たく、常に監視されているような気もしてあまり居心地がいいとは言えない。もちろん個別に強制停止させることもできるため、明日奈が使っているのはクローゼットの自動開閉ぐらいなのだが。
それでももう少し時間が経てば慣れてくるのだろうが、それがいったいいつになるのか……。
…………浮遊城で過ごした住居の方が、よほど自分の部屋――家だという実感が持てた。
ふーっと深呼吸してから横目に時計を見やると、まだ朝の五時半。明日奈は早起きな方ではあるが、最近の起床時間より一時間ほど早い。このままもう一眠りできるだろうかと目を閉じてみる――が、残念ながら眠気がやって来てくれる様子はなかった。
どこか気持ちが落ち着かないまま枕元に置いた端末が気になって、もぞもぞと手を伸ばしカレンダーに記した今日の予定を確認。
〝キリトくんとお出かけ〟。
表示された文字列を指先で追いかけると、無意識のうちにほんのり口角が上がった。液晶に触れたところからじんわりと温かくなったような気がしたが、端末から発せられる熱のせいだけではないだろう。
今日の予定が決まった日から、明日奈は毎日スケジュールを見てあと何日、と日数ばかり数えていた。それこそ、端末の液晶に穴が空くのではないかというほどに。平常心を振る舞いながらも約束の日が近くなるにつれて浮き足立っていた自覚はあるが、幸い母や父には気付かれなかったらしい。もっとも、明日奈を心配して時折顔を出してくれた兄には勘付かれていたようだが。
けれどそれくらいは許して欲しい。入学式には間に合わなかったが、毎日のリハビリを頑張ってようやく松葉杖なしで歩けるようになったのだし、その間の勉強だって怠っていなかったのだ。
明日奈が再び時計を見ると、起きてからまだ十五分ほどしか経過していない。ベッドに横たわったままカーテンの隙間から空を覗くと、遠くがようやく白んできたところ。もう少ししたら完全に日が昇るだろう。
「本当は、もう少し眠った方がいいんだけど……」
肩までかかった布団を引っ張りながら、そんなことをひとりごつ。
せっかく明日奈が松葉杖から解放されて初めてのデートなのだ。途中で眠くなってしまったり、具合が悪くなってしまうことはなんとしても避けたい。キリトはそれぐらいで何か言うような人間ではないが、単なる睡眠不足で余計な心配までさせてしまうことが嫌だった。ただでさえ、リズベットに「過保護すぎ!」と言われるほど、彼は未だに明日奈の体調を心配しているのだから。
「ふふ」
その時のことを思い出して、思わず声が零れる。
その実、リズベットもそう口にしながら、明日奈が少しでも重い物を持とうとすれば代わりに持とうとしてくれるし、少しでも転びそうになればすぐに支えてくれる。しかし明日奈たちと学年の違うキリトはそんなリズベットの様子を知らないため、彼女に言われやや困り顔になっていたのがおかしかった。もちろん、あとでこっそりキリトには伝えたのだが。
――いつもの起床時間まであと十分。目を閉じても眠れないし、もうここまできてしまったらさっさと起きようか、と明日奈はゆっくり上体を起こす。膝立ちで窓の方へ寄って、カーテンをそろりを開ける。と、ここではない、けれどここよりもずっと《現実(ホンモノ)》の世界で何度も見たことのある景色が広がっていた。
橙、薄灰、青、紺…………。
雲一つ見えない空に広がるグラデーションに心を奪われ、目に焼き付けるようにしてその光景に見入る。同時に、どこか郷愁を覚え胸をぎゅっと押さえた。
この部屋はどこか現実味に欠けるけれど、この窓から見える景色だけは本物。そのことが少しだけ嬉しくて、安心できる気がした。
明日奈は端末に再び手を伸ばし、ピントを合わせてから一枚の絵を切り取るようにシャッターを切る。続けてキリトへのメッセージ画面を素早く開き、〝おはよう。よく晴れそうだよ〟の言葉と共に写真を送信。朝寝坊な彼のことだから、当然すぐに既読になることはない。だから彼が起きたとき、いったいどんな反応をして、どんな返信をくれるのだろう――。
そんな想像をして、明日奈はふわりと微笑んだ。
end
2021/8/28 初出