届かないと知っている

 ふと時計を見て、そういえば今日はまだだな。と手元の本のページを捲ったと同時、うなじに埋め込まれた疑似神経がじんと熱を帯びた。
 聞こえてきたのは、どうやら気が沈んだ様子のやや疲れた声。
『ハ、ハンドラー・ワンより戦隊各位。すみません、遅くなりました』
「お疲れ様です、少佐。そちらで何か?」
『その、何かあったというほどのことでもないのですが。愛用している万年筆があるのですが、今朝からキャップが見当たらなくて探し回っていて……。帰ってきてからも部屋の中を探していたら、つい夢中になってしまって……』
 それでも見つかっていないのだろう。知覚同調パラレイドの向こうでどうやら項垂れたらしい。
 レーナの言葉聞いて、シンは小さく息を吐く。大したことではないらしい。
「そういうのって見つかることの方が少ないんじゃない?」
「俺もずっと見つかってないんだよな~、オセロの石」
「え、あれ失くしたのハルトだったの? 気づいたら三つ足りなくなってたけど」
「三つ? 俺失くしたの二つだけど」
 ……だのと、セオとハルトがわいわいやり始めたのを余所に、シンは口を開く。
「……寝具の中にでも紛れているのでは?」
 彼女のことだから、ベッドにいても仕事をしてそうだと思ってなんとなく言ってみただけだった。……ライデンはなにやらにやりとこちらに視線を向けたが、今は無視を決め込む。
 しかしレーナは心当たりがあったのか。あ、と零して、ぱっと明るくなった気配が同調越しに滲む。
「ベッドの下は探しましたが、寝具はまだでした。このあと探してみますね」
 それから他愛もない話が繰り広げられていくのに耳を傾けながら、シンは読みさしの本に紙を挟んでパタリと閉じた。
 
 
 遅くなってしまったからと十五分ほどで終わった定時連絡の後。シャワーを終えて、シンは灯火管制が入った自室の簡素なベッドの端に座る。
 止まない〈レギオン〉の声がやや近づく。今日は何もなかったが、明日は戦闘になるかもしれない。
 もう寝ようと横になりかけて、再び知覚同調パラレイドが起動した。思わず血赤を瞠る。
 少佐……?
 言いかけた言葉は音になる前に、弾んだ銀鈴の声に遮られた。
『大尉、ありました! 大尉が言っていた通り、布団に紛れていました。ありがとうございます』
「見落としそうな場所を適当に言っただけですから」
『ふふ。それでも、ありがとございます』
「――…………」
 心の底から嬉しい、という感情が伝わってきて、どう返していいのか分からなくなる。見たことのない、今後見ることもないだろう同い年くらいの少女の微笑みがなぜか脳裏を過った気がして、小さくかぶりを振った。
 数秒の無言が続いて、それをどう捉えたのかレーナは申し訳なさそうに口を開く。
『あっ、すみません。もう寝るところですよね。見つかったので、つい嬉しくなってしまって……』
「いえ。……大事にしているのですね」
『軍に入った時に、記念だからと父と親しかった方からいただいて。それ以来ずっと使っているんです。父が亡くなってからもずっとお世話になっていて、血は繋がっていませんが、時々実の娘のように接してくださって、』
 彼女にとっていい人、なのだろう。嬉々として話す様子から、そんなことを思う。同時に、なぜかもやもやとするような感覚を覚えて、理由も分からずシンは眉を寄せる。
 それが同調越しに伝わってしまったらしく、レーナは途中で言葉を切りしょんぼりとした。……そういうことを、思わせたいわけではなかったのだが。
『……すみません。遅いのに余計な話までしてしまいましたね。こんな時間ですが、少しでもゆっくり休んでください』
「構いません。少佐こそ、休めるときにきちんと休んでください」
『ありがとうございます。では、……おやすみなさい、大尉』
「……おやすみなさい」
 同調が切れる直前、名残惜しむような感情が滲んだのは気のせいだろう。だから銀鈴の声が聞こえなくなってどこか残念な気持ちになったのも、多分気のせい。
 見上げた先。赤い双眸に映るのは、明るく光る青白い月。
 無意識に手を伸ばしかけて、ぱたりと硬いベッドの上に落ちた。

end
2023.04.18 初出