大人になる

 一月らしい、まさに〝冬本番〟といった風がうなじを撫で、背筋がぞくぞくっと粟立つ。
 空は若干雲があるもののよく晴れていて、きっと風がなければ日向ぼっこでもしながら昼寝ができただろうなあ、と思えるくらい暖かい陽射し。空気はひんやりしているが、雨や雪にならなくて良かったと胸を撫で下ろした。
 ふと腕時計を覗き込むと、時刻は午前九時二十分。約束の十分前だ。
 俺が立つ場所のすぐ横には、《世田谷区成人式会場入口》と黒文字で書かれた白い看板。
 辺りをきょろきょろするも、約束をした人物はまだ見当たらない。その代わりに、色とりどりの振袖に身を包んだ女性。寒色系のスーツ、袴に身を包んだ男性。中には少々奇抜すぎる格好をした金髪頭まで。どれも本日の《主役》だ。
 現代の日本において、普段であればそういった和装をしてる方が目立つが、ここでは逆に、細身の黒いスラックスに黒いスニーカー、紺色セーターの上にグレーのダウンジャケットを着た、どこにでも居そうな……所謂《普通の格好》をした俺の方が目立っている。目立つのは嫌でなるべく景色に溶け込みたいと思い、隅の方で縮こまった。
 ――まさか、初めての成人式参加が自分のじゃないとはなあ……。
 はぁ、と吐いた息が視界を一瞬だけ白に染めた。

 中学生の頃はネットゲームの世界に耽溺していたため、まず恋人ができるとも思っていなかったが、さらにその人の成人式に同伴するなんてことは、天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていただろう。そもそもあの頃は、効率のいい狩場だとか、狙っていたレアアイテムの入手経路だとか、次のクエストのために準備する物のことしか考えていなかった。ましてや恋人がほしいなんて考えたこともない。
 一般的に中学生男子といえば思春期真っ盛りで、「彼女ほしー」「昨日スゲー可愛い子を見てさあ」「隣のクラスのあの子がさー」などという会話に花を咲かせるのだろうが、俺はそこに混ざることもなく、時々ゲーム仲間とゲームの話をするだけ。残念ながら異性にも他人にも興味がなかった。
 それがある日を境に、自分以外の誰かに惹かれ、ゲームの中ではあるが結婚までした。現実に戻ってからも関係は続き、将来は――とお互い考えている。高校生の頃ももちろんそのつもりではあったが、歳を重ね俺も十九歳。今年の十月には二十歳を迎える。《結婚》という単語が現実味を帯びてきて、もっと大人にならないと……と、思うことが増えた。同時に、〝大人になる〟というのはどういうことなのだろう……とも思う。
 そもそも年齢で考えれば彼女の方が一歳年上で、法律的に大人になるのは俺よりも早い。現に、こうして俺の成人式よりも先に彼女の成人式に足を運んでいる。精神年齢も、女性の方が同い年の男性よりも二、三歳上だと巷では言われている。そう考えるのであれば、俺と彼女の精神年齢差は約六歳あるということになり、俺よりも遥かに彼女の方が大人だ。
 いや、けれど俺は一昨年の夏に《アンダーワールド》という加速された時間の中で二年を過ごし、実年齢は十九歳だが魂年齢では二十一歳ということになっている……はずだ。多分。だとすれば、彼女との精神年齢差も一、二歳程度で済むのでは……。それでも差はできてしまうことに変わりはないが。
 塀にもたれかかりそんなことを考えていると、一台の黒塗りセダンが目の前に停まった。その助手席からはよく見知った人物――恋人の母親である結城京子が降りてきた。反射的にびくりとするも、こちらを見ることはなくすたすたと後部座席へ回る。そのままドアが開けられ、中にいた人物は袖が地に着かぬよう持ちながらゆっくりと車から降り立った。
 綺麗な赤だった。
「――――っ!」
 思わず息を飲む。周りの音はフェードアウトし、自らの心臓がどくんと大きく波打つ音だけが耳に届く。
「キリトくん」
 微笑みと共に発せられた澄んだ声が、空気を震わせた。

 ――面白くない。
 いや、彼女の晴れ姿が見れることはいいとしよう。それは大いに結構だ。むしろ近くで見れるのだから願ったり叶ったりだ。
 けれど、やはり面白くない。
「はぁ……」
 俺は思わず重い溜息を吐き、辺りをジロリと見渡す。
 紺やグレー、黒のスーツ――あるいは袴に身を包む者。そこから感じる数々の視線。
 もちろん俺を見ているのではない。隣で赤を基調とした振袖を着こなす彼女を、だ。……いや、中には「どうしてお前がそこに」と思っている奴もいるのだろうが。
「キリトくん、どうしたの? もしかして疲れちゃった? それとも、やっぱり来るの嫌だった……?」
 顔の輪郭にかかる栗色の髪が、さらりと流れ、陽光を浴び一瞬だけ光る。心配そうに揺れるヘイゼルの瞳が、こちらを見上げる。そんな小さな動きにさえどきりとしながら、舌を動かした。
「い、いや! そんなことないよ。俺だって、明日奈の晴れ着姿見たかったし」
「そう?」
 ……ある意味、疲れてるかもしれないけど。
 無論そんなことは口に出せるはずもないので、明日奈の問いにただ首を縦に振った。
 小首を傾げる明日奈はこの上なく愛らしい。ここが公の場でなかったら、きっと振袖と同色に染められた唇を塞いでいただろう。
 その可憐さと、けれど慣れたように振袖を着こなす姿は美しく、普段は下ろしている髪を今は頭上で結い上げているため、いつもは見えない白いうなじは実に色っぽさを醸し出していた。

 ――キリトくんにも近くで見てほしいな。
 電話越しにそう言われたのは、二ヶ月ほど前のこと。前撮りが終わったというメッセージと共に、明日奈から数枚の写真が送られてきた。今日着ている振袖の他に、白を基調として裾へ向かって桃色のグラデーションがかかった振袖にも袖を通したようで、振袖二種類、各三枚。計六枚の写真を受信。
 普通、こういったときに着る和服は《着ている》というより《着られている》という印象になるが、さすがというべきか、明日奈は見事に着こなしていた。後でそのことを伝えると、『小さいときからさんざん、京都の本家に行く度に着せられてたからね』と苦笑していた。
 普段は解らない程度にしか(本人に言うと怒られるため絶対に言わない)化粧しないせいで、きっちりメイクアップされた彼女は妙に色気があり、オトナっぽく見えた。
 相変わらず口下手な俺は『綺麗です』と淡白な――見方を変えれば冷たくも見えてしまうのではないかという文面しか入力できず、送ってしまってから頭を抱えたものだ。
 けれどすぐに電話が鳴り、嬉しそうな声で『成人式当日は、キリトくんも一緒に来てくれないかな?』というお誘いがあった。

 そして今日に至る。
 画面越しであれだけ綺麗なのだから、実際に見たらさぞすごいのだろうと予想していたが、その予想を遥かに超えていた。綺麗、とか、麗しい、とか。そんな言葉だけでは片付けられないと思ったほど。何せ、今朝車から降りてきた彼女を見て、どう声をかければいいのかと言葉を詰まらせてしまったのだから。おかげで最初はご機嫌斜めになっていた明日奈だが、照れくささ交じりに耳元で囁けば、そこから花が咲いたような笑みを見せるまでに時間はかからなかった。
 贔屓目なしにこれだけ魅力的であれば、周りの目を引いてしまうのは仕方が無い。……仕方がないが、それでもむむむっ、とせざるを得ない。知らず、繋いだ左手に力が籠もった。
 何となしに明日奈を横目に見ると、およそ一年半前に渡した、ティアードロップ型のアクアマリンが施された指輪が、ほっそりとした左手薬指できらりとその存在を主張。それに彼らは気付いていないのか、もしくはお構いなしなのか、視線は絶えずこちらを向いている。そのことが、なおさら俺をもやもやとさせていた。
 むむむ…………。
 と、突然眉間をつんと押された感覚が生まれ、我に返る。目をぱちくりさせると、明日奈のほっそりとした指が一本立っているのが見えた。
「キリトくん、さっきからどうしたの? 眉間にシワが寄ってるよ?」
「えっと……なんでも――」
 ない。言いかけたところで、「明日奈ちゃん?」という聞き覚えの無い男の声が耳に入った。明日奈もその声に反応し、くるりと振り返る。
「おっ、やっぱそうだ。久しぶり~! オレのこと覚えてる?」
「え――っと……ど、どちらさまですか……?」
 隣で明日奈の表情が怪訝なものに変わる。
 身長は一八〇センチを優に超えるだろうか。スーツを着ていて解りにくいが、ワイシャツから覗く太さを持った首が、体格の良さを表してした。スポーツでもやっているのだろう。頭は角刈りで、この時期に日焼けはほとんどしないはずだが、浅黒い肌に白い歯がきらりと光る。俺とは正反対の、いかにも《モテそうな男》といった感じだ。
 どこの誰なのかも知らないヤツが軽々しく名前呼びしていることに、思わず頬をぴくりと引き攣りそうになる。けれど男が誰なのか解る前にそれを表に出すことは避けたい。万が一明日奈の知り合いであれば――明日奈の反応を見るにその可能性は0.1%もないが――気まずい思いをするのは明日奈だ。ここはあくまで平静を装いつつ、ラグビー部かなあ……なんてどうでもいいことを頭の片隅で考える。――と、約一.五メートルあった距離を男が一瞬で縮め、明日奈の手を取った。
「なっ……!」
「オレだよ! 小学校六年のときに同じクラスで、席も隣だっただろう?」
「そ、そんなこと……覚えていません。わたし急ぎますので、離していただけますか?」
 そこでさすがに俺の苛立ちも限界に到達し、奪うように明日奈の手を掴み背中へ隠す。俺の奇襲に、男は何が起こったのか解らない様子で目を丸くした。
「悪いけど、俺たち忙しいんで。それから……明日奈は〝俺の〟なので」
 一応年上であろう男に「失礼します」とだけ言い残し、明日奈の手を引いてその場から逃げるように去った。男が最後にどんな表情をしていたかさえ確認する余裕もなかった。

 成人式会場の裏手に回ると、小さな公園になっていた。主役たちはどうやら表で友人たちと戯れているらしく、ここに人影はない。繋いだ手はそのままに、二人でゆるゆると近くのベンチへ座る。
 途中、驚いた明日奈の言葉も無視したままここまで来てしまったため、隣で困惑の色をしたヘイゼルに罪悪感が生まれた。同時に、子供じみた自分の行いに頭を抱えたくなる。あくまで冷静に対応しようとした明日奈。対して俺は、見知らぬ男に明日奈が触れられていることにも、軽々しく名前呼びすることにも苛立ちを覚え、余裕もないまま明日奈を攫った。
 俺も今年の誕生日を迎えれば二十歳。明日奈と同じ成人だ。なのに、未だにちょっとしたことで嫉妬したり、明日奈が関わるとどうしても冷静になりきれないことがある。しかも、初めて付き合い出した頃から考えても、それは年々増していくばかりで留まることを知らない。
 いや、正直ここまで膨れ上がっている状態で留まらせるのもどうかと思うが、あまりに欲が大きくなりすぎて、明日奈に嫌な思いをさせてしまうのではないかと時々心配になる。明日奈に触れて、一緒にいる時間が増えれば増えるほど、どんどん我儘になっているような……。
 吐きかけた溜息を飲み込み、どうしたの? とでも言いたそうなヘイゼルの瞳を見つめた。
「ごめんな、明日奈……。その格好じゃ動き回るのだって大変なのに、急に……」
「ううん、わたしは歩き慣れてるから大丈夫だよ。それより……もしかして、やきもち?」
「…………まあ、そんなところ、です……」
 図星を突かれ、俺が拗ねた子供のように言うと、明日奈はくすくすと肩を揺らした。
「わ、笑わなくても……」
「ふふっ、ごめんね。だって嬉しかったんだもん。さっき、〝俺の〟って言ってくれたでしょ? 普段はあんまり言わないから、やっぱり嬉しいな~って」
「そんなに言ってないか? あーでも、ベッドの上なら……」
「も、もう! そっちの話じゃないの! 確かにあのときも言われて嬉しいけど……って、こんな昼間から言わせないでよ……! キリトくんのばか……」
 ぷいっと反対側を向き拗ねたようにしているが、拗ねているわけでも、ましてや怒っているわけでもないことを俺は知っている。空気に晒された耳は赤いが、寒さのせいだけで赤くなっているわけではないことも、俺は知っている。
 そんな姿に愛おしさが込み上げ、華奢な身体を両腕で引き寄せた。
「ひゃあ!? き、キリトくん……?」
「…………明日奈……」
 最初は腕の中で慌てていた明日奈だったが、顔を近づけ至近距離で見つめていると、何かを感じ取ったように目を閉じ、こつん、と額同士を合わせてきた。
「……そーゆー顔をするのはずるいと思います」
「そーゆーって、どーゆー?」
「もう……」
 仕方ないなあと明日奈は顔を離し、じっと視線をこちらに向けた。正直、その上目遣いの方がズルイと思うのは俺だけだろうか。
「……なあ、口紅って持ってきてるのか?」
「え? う、うん。後で化粧直しできるように一通りあるよ」
「じゃあ大丈夫だな」
「大丈夫って……んっ……」
 一瞬きょとんとした明日奈の振袖と同色の唇へ俺のそれを触れさせる。いつもと少し違った感触と匂い。口紅の不思議な味。それらが逆に俺の中の欲をそそり立て、啄むようなキスから徐々に深さを増していく。
 くぐもった明日奈の声を、何度も角度を変えながら貪った。

 ようやく離れたころには明日奈の息は絶え絶えで、頬を紅潮させ、心なしか瞳も潤んでいた。すっかり力が抜けてしまったらしく、俺の胸によりかかっている。
「明日奈、可愛い……」
「かっ……も、もう……! そんなので騙されないんだから……キリトくんのばか」
「正直に言っただけなのに。嫌だったか……?」
「嫌じゃないけど……こんなところでキスなんて、誰かに見られたらどうするのよ……」
「誰もいないから大丈夫だよ」
「もう……あっ!」
 明日奈は伏せていた顔を上げると、何かに気付いたように声を上げた。そのまま手を上へ伸ばし、ほっそりとした指先で俺の唇に触れる。
「……キリトくんの唇に口紅が付いてるのって、不思議な感じがするね」
「そりゃあ、俺は付けたこともないですし。明日奈とキスしないと付かないよ」
「ふふっ、なんだか恥ずかしい……」
 くすくすと肩を揺らすと、つーっと人差し指が俺の唇をなぞった。慣れない感触にどきりとしつつ、こそばゆさを覚える。程なくして、明日奈の指先が赤く染まった。
「ふ、振袖汚れるぞ?」
「ちゃんと拭くものは持ってるから大丈夫だよ。……ね、式の最中は一緒にいられないから、もう少しだけ充電してもいい?」
 手早く鞄から取り出したティッシュで指先を拭いながら、まだほんのり頬を染めたままの明日奈が言った。普段あまり見せない甘えたような目の色に断る理由などなく、頷き、俺は再び腕の中に愛おしい存在を閉じ込めた。いつもと違う化粧の匂いや振袖の匂いが漂う中で、いつもと同じ明日奈の匂いも確かにある。その匂いに安堵を覚え、身体の力がふっと抜ける。
「……俺も、もう少し明日奈を充電したいです」
 先ほどまであんなに表で注目の的になっていたのだから、今くらいは俺が独占しても文句は言われまい。そもそも明日奈は俺のなのだから、誰かに文句を言われる謂れもないが。きっとそんな考え方もまだまだ子供なんだろうな、と一瞬頭を過ったが、今はそんなことを気にする余裕はないとすぐに放棄する。
 俺の言葉に、「うん」と小さく応える声が聞こえた。今は髪が結われており頭を撫でることはできないため、顔の横にかかる栗色の髪を指先に絡め、ときに梳き、式典が始まるギリギリまで互いに充電し続けた。

***

 一定のリズムでこつこつとアスファルトが音を立て、遠くで踏み切りの音や車のエンジン音が聞こえる。
 首元やスカートの隙間から進入してくる冷たい空気に、時折ぶるりと身体を震わせる。そのたびに、繋がれた手が大丈夫かとでも言うようにぎゅっと握られ、大丈夫だよと返事をするように明日奈も握り返した。
 ほっ……と吐く息は白く、一瞬で視界を曇らせ、星空(都会で満天とは言いがたい)と視界の間に境界が作られた。
 けれど、それもほんの二秒後には冬の空気に溶けて無くなる。その様子は、今歩みを進めている間にも進んでいく刹那にも似ているように思う。

 成人式の後、明日奈たちは東京都御徒町にある《DiceyCafe》へ足を運んだ。言うまでもなく、成人のお祝いのためだ。
 通っていた中学校の同窓会に参加するのが一般的だが、明日奈たちの場合その中学に通っている間に《ソードアート・オライン》というデスゲームに二年も閉じ込められ、今更顔を合わせづらいというのが正直なところ。
 明日奈の元にも招待状は来たが、お互い敵同士としてしか見てこなかったため特に親しい仲の友人がいるわけでもない。仮に行ったところでおそらく彼女たちは、興味で手を出してしまったゲームによって二年間を無駄にした《街道(エリートコース)を外れた者》と明日奈を蔑むだろう。この歳にもなって子供っぽいとは思うが、彼女たちはそう〝教育されてきた〟のだ。仕方がないのだと解っていても、そんな場に顔を出すなんて明日奈とて気分は悪いし、あの二年間を無駄だと言われることが何よりも嫌だった。あの世界で出会った人たちと思い出を侮辱されているような気さえしてきて、少しでも琴線に触れようものなら、それこそ明日奈の堪忍袋の緒が切れてしまいそうだ。
 そんな明日奈と里香の気持ちを察したのか、ならば仲のいいいつものメンバーで集まりお祝いでもしようと店主であるエギルが提案し、明日奈、里香、詩乃、桂子、直葉、クライン、そして和人が一堂に会した。普段から現実、仮想を問わず付き合っている面子ではあるが、それでも飽きることはないのだから不思議だ。話は尽きることを知らず、プライベートな話からALOで予定されている次のイベントの話まで。
 皆が初めて出会ったときと比べ少しずつ変化しているものは多々ある。年齢もその一つ。
 しかしそんな変化の中でも、変わらないものが各々の中に確かに存在していて、どこかに少しずつ変化があったとしても、その人が《その人である》ということを確固たる事実としているのだろう。
 《帰還者学校》を卒業し、それぞれの道を歩み出してから、みんなで集まる機会は確かに減っている。減ってはいるが、このまま連絡も取らなくなって《昔の友人》のような扱いになってしまうのだろうか――なんて心配は一ミリもなかった。それもきっと、歳を重ねても彼ら彼女らの中で決して変わらないものがあり、この縁が切れることはないと互いに信じることができるからだと明日奈は思う。要するに、歳を取ろうが身長が伸びようが、変わらないものは変わらないのだ。
 ちなみに今、コートの下に振袖ではなくワンピースを着ているのも、エギルの店の奥を借りて着替えたから。前日に里香と御徒町へ行き、着替えを置かせてもらっていた。慣れているとはいえ、さすがに一日中振袖を着ているのは体力を消耗するのだ。

 ――成人、か……。
 成人。大人になること。
 様々な義務と権利が与えられ、社会的にも法律的にも責任が増えること。
 昨年九月三十日に、明日奈は二十歳という大きな節目の歳を迎えた。仕事で忙しいはずの兄・浩一郎もこの日ばかりは帰省。普段は家庭を顧みない父・彰三も早々に帰宅。母・京子も仕事を早めに切り上げ、ハウスキーパーの佐田とあれやこれやと準備していたらしい。そんな家族四人に恋人である和人を加え、宴を楽しんだ。
 初めて飲んだお酒はアルコールが強かったらしく足がふらふらになってしまい、二階の私室まで恋人の逞しい腕に支えられながら運んでもらったのは、今思い出しても顔から火が出そうになる。以来、お酒は飲まない……飲んでもほんの少量で抑えるようにしている。
 和人曰く、普段とはまた違う表情や態度が見れるから面白いらしいが、いくら長い付き合いで将来まで誓った間柄とはいえあまり羞恥を晒したくないと思うのは、やはり彼に幻滅されたくないという乙女心からだろうか。
 ともあれ無事に成人を迎えたわけだが、あまりその実感はなかった。いや、成人式を終えた今も、その実感はとても希薄なもののように思える。目に見えない形の《免許証》は、今の明日奈にとってあまりに存在感が薄かった。
 これまで自分がしてきた選択には、必ず両親も責任を負っていた。だからこそ京都にある結城家の本家にいい顔をされようと、以前は明日奈の自由を狭めあれやこれやと手を焼いてきたわけだ。
 けれど成人――つまり二十歳になるということは、それを全て自分で負わなければならなくなる。そう考えると、ずっと子供のままでいたかったとつい思ってしまいがちだが、大人になって自ら選択ができるようになるということは、それだけ得られる満足感も増すのだ。……多分。
 振り返れば、ここまで来るまであっという間だったように思う。
 大人になるのはもっと先だと思っていた。もちろん、早く大人になりたいとは思っていたが、こんなに早く時が過ぎ去るなんて予想外だ。特に、《SAO》に囚われてからの時間の流れは本当にあっという間で、それだけ毎日が充実していたとも言える。そう思えるのも、きっと隣にいる少年――いや、青年がいてくれたからなのだろう。
 もう明日奈が見上げねばすっかり目を合わせることも難しくなってしまった顔に視線を移す。住宅街に並ぶ白いLEDの街灯に照らされ、歩くスピードに合わせて端正な顔に陰影が生まれた。
 初めてゲームの中で出会ったときはお互い中学生で、背もそこまで変わらなかった。けれど現実に帰還してからはいつの間にか差が広がり、少しだけ和人は明日奈を見下ろすようになった。真っ直ぐだった視線が上から降るような格好になり、頭の上から足先まで和人に包まれているような錯覚に陥ることがある。そのたびに胸の奥がきゅーっと切なくなり、体温が上昇する。
 以前、和人にこの話をしたところ、『俺こそ、明日奈が常に上目遣いで見てくるから心臓が持ちません』と頬を掻いていた。視点が変わってどきどきしているのは自分だけでなないのだと。彼もそれは同じなのだと知って嬉しかった。
 あまりに見ていたためか、不意に和人がこちらを向いた。街灯が黒曜石のような瞳に映りこみ、そこだけが怪しく光っているようにも見える。
「? どうしたんだ?」
「う、ううん! 何でもないよ」
「そ、そうか……」
 なぜか少しだけ声色が沈んでいた。時折頭上を通過する街灯が和人の顔を照らすと、その表情はいつもより険しい。
 ――わたし、何かしたかな……?
 考えてみるも、和人の機嫌を損ねてしまうことを明日奈がやった覚えはない。横目に和人を盗み見ると、不機嫌そうではあるが、その中になんとなく不安の色が見て取れた。
 このままあと十分も歩けば、明日奈の家に着いてしまう。このままではきっと和人は口を閉ざしたままだろうし、明日奈も伝えていないことがあったため、何もなく送り届けられてまた明日――なんてことは避けたい。
 ――よし!
 明日奈は胸の裡で自らを鼓舞すると、
「キリトくん」
 繋がれた手をくいっと引き、立ち止まった。
「明日奈……?」
「あのね……ちょっとだけ、公園でお話しして行かない?」
 突然のことに和人は一瞬だけ驚いた表情を見せるも、すぐにこくりと頷いた。

 明日奈の家の近くには公園があり、以前は和人の送り迎えもここで行なっていた。
 けれど一昨年あたりからは直接家の前まで来て送り迎えが行われているため、こうしてここに二人で来る機会も減っている。久しぶりに和人とここへ訪れため、何となく《こちら》で付き合い始めた頃のことを思い出し、ほんのり見える星空を眺めながら懐かしい気持ちに浸りそうになったところで、いやいや今はそうではない――と、思考を現実に無理矢理引き戻した。
「…………」
 公園のベンチに並んで腰を下ろしてから約五分が経過したと思われるが、依然として和人は何も話さない。明日奈が時折握られた手に力を込めれば優しく握り返されるが、それでも眉間にシワを増やすだけで口を開こうとはしなかった。
「……キリトくん、機嫌悪い?」
「えっ、なんで?」
「眉間にちょっとシワ寄ってる」
 繋がれた手と反対の手を伸ばし、黒髪の間に覗く眉間を指先で小突く。けれどシワは伸びることを知らず深さを増すばかり。
「いや……別に、機嫌悪いとかじゃないよ」
「えっ、じゃあ……体調悪いの? 大丈夫?」
「いやいや、そんなんじゃないって……。ただ、さ――」
「うん」
 彼の口を突いて出た言葉は、明日奈の予想に反しているものだった。
「――明日奈だけ先に大人になって、おいて行かれたような気がして……なんか、ヤダ」
 ふいっ、と顔を背け、まるで子供のように拗ねている。けれど公園のぼんやりとした灯りの下でも解るくらい、普段はどちらかと言うと色白の頬がほんのり赤く染まっている。寒さのせいか、それとも……。
 明日奈はなんだかおかしくなり、ぷひゅっ、と吹き出した。
「わ、笑わなくてもいいだろ……」
 というセリフを聞くのも、今日が二回目だというのを彼は自覚してるだろうか。
「ふふっ。だって、キリトくんそんなこと気にしてたのかーって思って」
「悪かったな、オコサマで」
 更に機嫌を損ねてしまったらしく、口の端は下がるばかり。宥めるように握った手に力を込め、二センチほど身体を寄せる。
「笑ったりしてごめんね。子供っぽいとか、そういうことで笑ったんじゃないの」
 和人が逸らしていた顔を戻し、じゃあなんで? という視線を向けてくる。
「だって、そんなこと気にすることないもん。確かに法律上はわたしが成人で、キリトくんは未成年ってことになるけど、今まで通り一歳差なのは変わらないし、わたしだって、まだ学生で親に面倒見てもらってる身だもの。それに……」
「それに?」
「まだ大学生で実家暮らしだから、遅くても日付が変わるまでには帰ってくるように言われてたでしょ? でもね、その……行き先とか言えば、いつでも外泊してもいいって、お母さんが……」
 今までは京子が外泊を認めていなかったため、出張中を狙ってこそこそと……それこそ、まるで悪いことでもしているかのように桐ヶ谷家に泊まっていた。けれどこれからは、伝言さえ残せばいつでも外泊ができるのだ。
 母親に言われたのは昨日の話。いっときより考えが柔軟になったものの、まさかそんな許可が下りるとは思っていなかった。
 ――大人になったんですから、きちんと自分で責任を負える範囲で好きにしなさい。
 一見冷たくも捉えられるが、言葉の端に何か温かいものを感じ、一人の〝大人〟として認められたような気がして胸がいっぱいになった。そんなこともあってか、昨日の食卓はいつにも増して柔らかい雰囲気で終えたように思う。夜眠るときも、いつ和人に言い出そうか? どんな反応をするだろうか? と考えていたせいで眠りにつくまでに時間を要し、翌日の起床時間は大学へ行くときよりも早いのに起きられるのかと心配になったほどだ。
 和人の様子が気になり横目に見ると、どう反応すればいいのか困っているようだった。戸惑いを隠しきれないまま、和人が言う。
「えっと……つまり、その……門限がなくなった、ってことです……?」
「うん……」
「そ、そっか…………」
 予想とは違った薄い反応に、明日奈の眉がやや吊り上がる。
「キリトくんは嬉しくないの?」
「いや! 嬉しいよもちろん。明日奈と旅行とか行きやすくなるし、京子さんに少しだけ認められたような気もするし……」
 嬉しいのは本当のようだ。眉間にあったシワも消えているし、数分前よりも表情が柔らかい。けれど歯切れが悪いのは何故だろうか? そんなことを思っていると、考えが顔に出ていたらしく、和人は視線を泳がせ頬を掻き、
「その……確かにそういう制限が無くなれば堂々と一緒にいられる時間も増えるし、俺も嬉しいんだけど……。い、色々と抑えが……効かなく……なりそう、で…………」
 語尾を小さくしながら応えた。
 つまり、これまでは制限のおかげで理性を留められていた部分もあったが、制限がなくなったことで抑えられたものが抑えられなくなりそうだ、ということだろう。
 和人が言いたいことを理解し、明日奈の顔に熱が集まった。重なった互いの掌まで、何となく熱い。
「でも……それなら、明日奈が先に成人するのも悪くない、かもな……」
 公園のぼんやりした街灯の下でも分かるくらいに頬を染め、黒い瞳が優しく笑った。明日奈といる時にしか見せない、温かい笑顔。胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じながら、明日奈もふわりと笑い返した。
 けれど、明日奈にはまだ言い残したことがある。
「それから、今日……今夜、なんだけど……」
「俺の家に泊まりに来るか?」
「うん、そう……って、えぇ!?」
 言おうとしていたことを先に言われ、明日奈は狼狽えることしかできない。口を金魚のようにぱくぱくしていると、和人が可笑しそうに吹き出した。
「そんなに驚かなくてもいいだろ」
「だ、だってキリトくん……急に……」
「違った?」
「う、ううん。合ってるよ。合ってるけど、だから余計にびっくりしたというか……」
「俺だってさすがに気付くよ。……って言いたいところだけど、明日奈がエギルの店で京子さんに電話してただろ? そのときに今日は泊まってくる、って言ってたのが聞こえてさ。まあ、今日だけの話じゃないのはさすがにびっくりしましたけど……」
 確かに今日、エギルの店の隅で電話をした。着替えを終えてから京子へ電話をかけ、着替えた振袖を自宅に置いたら和人の家に泊まると改めて伝えた。和人には言っていなかったが、事前に彼の妹である直葉と母親である翠には伝えていて、サプライズということになっていたはずだったのだが、まさか本人に聞かれてしまっていたとは。
 とんだミスをしてしまったと頭を抱えていると、突然身体が傾き、気付いたときには和人の腕の中だった。
「キリトくん……?」
「いや……やっぱり、明日奈が年上のオネーサンで良かったなーと」
「もう、さっきまではそれがイヤだって言ってたくせに……」
「いいんだよ! 結局、明日奈が年上だから好きになったとか、そういうのじゃないですし……」
 背中に回された腕が更に締め付けを強くし、明日奈の首元に顔が押し付けられる。コート越しでも伝わって来る鼓動の早さで、和人が恥ずかしがっているのだということを知る。いくら背が高くなっても、歳を重ねても、こんな小さなところは変わらずに残っていることが微笑ましく、明日奈も擦り寄り和人に甘えた。
「わたしもね、もしキリトくんが年上だったとしても、好きになってたよ」
 年齢など関係ない世界で出会い、恋をした。現実に帰還したことで年齢というものが重視されがちだが、和人の傍にいられるのなら明日奈はそれでいいのだ。もちろん、今回のように明日奈が年上であることがプラスに働くのであれば歓迎だが。
 不意に、和人の右手が明日奈の左手に触れ、そこに嵌められた指輪を撫でた。
「……いつか、一緒に帰る家を、こっちでも買おうな」
「……うんっ、……うんっ!」
 視界が黒に染まり、唇に温かくて柔らかいものが触れる。
 封じ込められた約束が叶うまでに、そう時間はかからなかった。

end
2018/01/07 初出
special thanks みっちょさん