「あ、待ってき……和人くん」
玄関でまだ真新しい革靴へ足を入れようとしていると、後ろからそんな声がかかった。言うまでもなく、同じ家に住む明日奈だ。俺がくるりと振り返ると、色白の両手を伸ばし、
「曲がってる」
と、首元で結ばれている紺色のネクタイに触れる。
「一応スーツ着てみたけど、いるのは比嘉さんとか知ってる人ばっかりだから、そんなにちゃんとしてなくても問題ないだろ」
「もう、そういう問題じゃないの! ちゃんと《社員》になってからはじめて行くんだから。初日くらいしゃきっとする!」
「は、はい……」
まるでいつかの副団長っぷりを彷彿とさせるような語気に反射的に頷くと、明日奈は「よろしい」と満足そうに笑った。
俺たちは今年三月に大学を無事卒業し、それと同時に同棲生活を始動。大学在学中はまだ学生ということもあり、お互い実家から通っていた。ときどき俺の家に明日奈が泊まることはあったが。
卒業と同時に俺の就職先として決まっていた《ラース》のある《オーシャン・タートル》内へ二人で引っ越すことは事前にお互いの両親に話してあり、一緒に暮らすなら籍も入れてしまえば……とはどちらからも言われた。
けれど、俺も明日奈もそれを受け入れず、今もまだ彼氏彼女の関係でいるのには理由がある。
昔、俺たちはSAOの中で、システム上ではあるが《結婚》し《夫婦》という関係になった。日付は、十月二十四日。帰還後も二人でその日はお祝いをしたし、十月二十四日という日付に俺も明日奈も特別な感情を抱いている。そのため現実世界の結婚記念日もその日にしたいという思いは両者にあり、今はまだ籍を入れずにいた。先にプロポーズも済ませたし婚約指輪も贈ったが、婚姻届を出しに行くのはあと半年ほど先になりそうだ。
「よし、もう大丈夫だよ」
言われて下を向くと、最初より綺麗に結びな直されたネクタイがそこにあった。自分で結ぶのと人のを結ぶのはまた勝手が違うはずだが、さすがは明日奈。自分でもうまくできたと思ったのか、誇らしげに笑みを浮かべている。最近は昔ほど子供っぽい表情や仕草は少なくなったが、俺の前では未だに健在で、このまま歳をとっても変わらないでいてほしいと思う部分の一つでもあった。
俺は右手を持ち上げ栗色の頭をそっと撫で、キラキラとしたヘイゼルに笑いかけた。
「ありがとう。今日は作業そんなにないみたいだから、早く帰って来れるようにするよ」
「うん! ご飯作って待ってるね。今日はハンバーグにしようと思ってたんだ~」
「おお……」
ジューシーな香りと溢れ出す肉汁を想像して、先ほど朝食を食べたばかりのお腹が鳴りそうになる。何としてでも早く帰らねばならない。速攻で終わらせて帰ろうと決意を固め、明日奈を抱き寄せた。
「ひゃっ……! もう、キリトくん急に……」
「また戻ってる……」
「え、あ……和人、くん……」
「うん。……まあ、どっちも変わらないんだけどな」
苦笑すると、何かに顔を挟まれくいっと正面に正された。
「わたしがちゃんと呼びたいの。和人くんは、呼ばれるの嫌?」
「い、嫌じゃないです。むしろ嬉しいというか……」
「ならいいの。籍入れるまでに、ちゃんと名前で呼べるようになりたいもの」
はっきりそう言いながらも慣れないせいか、照れくさそうにしている婚約者さんはこの上なく可愛らしい。このまま仕事に行かずに休んでしまいたい気分にもなったが、明日奈がそれを許さないだろう。
「そ、そろそろ時間だね。いってら……んっ」
至近距離にあった桜色の唇目掛け、自らのそれを押し付ける。体を更に引き寄せ、目の前の優しい香りと柔らかさを堪能する。綺麗に結ばれたネクタイが二人の間でシワを作ったような気がしたが、後で直せば問題ないだろう。
しばらくして顔を離すと、ヘイゼルの瞳を潤ませ顔を蒸気させている明日奈がいた。してやったりと方頬だけで笑い、「行って来ます」と頭を撫で背を向けようとした。
途端――。ネクタイが一瞬引っ張られ、柔らかいものが頬に触れた。
「……行ってらっしゃい」
パタパタとリビングに戻る明日奈の背を見送りながら、再び胸に誓う。今日は早く帰ろう、と。
end
2018/04/02 初出