「……シン! 笑わないでください!」
自分だってこれはあんまりだと思っているのだ。
不器用な自覚はあるが、前髪を自分で整えるくらいは何年もやっていてさすがに慣れたことで、だからこんな失敗をするなんて思っていなくて。
――原因は、シンの足元に擦り寄る白靴下を履いた黒猫なのだが。
洗面台で真剣に鏡と向き合っていたとき、いつの間にか近くにあった台に登ってレーナの右腕をつついていたずらしようとしていた。ティピーまだだめ、とそれを避けている間に、さっくりと。大胆に。いつもより短めに切れてしまった。
短いと言っても、眉にかかるかかからないかくらいの長さだ。だから特段変という訳でもないのだが、見慣れた長さとは違うためレーナはどうしようと前髪を何度もいじっていた。
そんなときに間が悪いというかなんというか。シンが執務室へやってきて、レーナを視界に収めた瞬間に血赤の双眸を瞠ってからふっと笑みを零したものだから。レーナは笑われたと思ってむくれる。
「悪い。変だと思って笑ったわけじゃないから」
「じゃあ他にどんな理由で笑うんですか! うぅ……もう今日は部屋の外に出たくないです……」
顔を両手で押さえる。伸びるまでには一ヶ月ほどかかるだろうし、その間どう過ごそう……。
ぐるぐると考え込んでいると、しんと冷えた杜松が鼻腔をくすぐった。
はっと顔を上げれば、音もなく歩み寄ってきたシンの姿。どこかバツが悪そうな表情を浮かべつつ、レーナを真っ直ぐに見つめていた。思わず真紅の瞳に吸い寄せられて、目が離せなくなる。
「笑ったのは、悪かった。けど、そうじゃなくて」
珍しく言い淀む彼に、小首を傾げる。――と、シンはほどなくして腹を括った顔をして、続きを口にした。
「……その長さも、似合う、から」
可愛いと思って。
言い慣れない言葉に気恥ずかしくなったのか、シンはふい、と視線を逸らす。黒髪の間から覗く耳が僅かに赤くなっている。
レーナは言われた言葉に何度か瞬いてから、顔を真っ赤に染めた。
だって、揶揄っているわけでもなんでもなく、彼は本気で言っている。本気で可愛いと、思ってくれている。
嬉しくない――はずがない。嬉しい。そうやって言葉を伝えてくれたことが。そう、思ってくれたことが。
レーナは共和国の中で異端者と思われていたが、綺麗だとか可愛らしいだとか、一度も言われたことがないわけではない。もっとも、どれに対しても心は動かず、にこやかな笑みを貼り付けながら会釈で流していただけだが。
けれど今は。
何と応えたらいいのか、その答えが導き出せない。そもそも恋人という存在自体が初めてだし、その相手に言われたら、心臓がばくばくとうるさくて、息が上がってしまって、胸が苦しくて、すぐに言葉が出てこない。
それでも何か言おうと口をぱくぱくさせて、
「えっと…………、ありがとう、ございます……?」
ようやく返せた言葉は酷く上擦ってしまって。
それにも恥ずかしくなって、両手で長い銀髪を掴みかんばせを覆った。
end
2022.12.21 初出