一瞬の非日常、俺と《俺》

 いつもと変わらない通学路。いつもと変わらない電車の時間。いつもと変わらないクラスメイトたち。いつもと変わらないアスナの笑顔。いつもと変わらない俺の部屋。
 だから、そこにいつもと違うものが紛れ込んでいることに、俺は気付かなかった。
 ――いや。〝気付きたくなかった〟だけなのかもしれない。
 それに触れてしまえば最後、自我が保てなくなるのではないかという無意識の自己防衛が働いたのかもしれないし、あるいは恐ろしいものでも見ているような気分になるかもしれないから。けれど結局それらを証明するには《彼》に接触するしか術はなかったし、後になって思えば、彼と接触したことによって知りたいこともいくつか知ることができたのだから、結果オーライなのかもしれない。

「ユイ、ただいまー」
 自室の机上に置かれた《視聴覚双方向通信プローブ》――通称《プローブ》と呼ばれるそれは、帰還者学校で俺の所属するグループが研究テーマとしているものだ。
 一方、今年の四月に発売されたARマルチウェアラブルデバイス――《オーブマー》という最新機器。それ使えば実際にAIプログラムであるユイの姿をこちらでも目視し、VRの中にいるような感覚で話ができる。
 けれど、ユイはなぜかプローブの方が居心地がいいのだと言い――実際に作っている身としては嬉しいことこの上ないのだが――、普段はオーグマーではなくそちらを使って会話してることが多い。
「ユイ?」
 もう一度呼ぶも、返事はない。いつもであれば一秒ほどの間の後に「おかえりなさい、パパ!」という可愛らしい声が返ってくるのだが。
 背中につーっと汗が伝った。誰もいないこの部屋で、誰かに見られているような感覚。ユウレイとかそういった類のものはあまり信じないたちだが、思わず生唾を飲み込む。けれどそういうものとも何か違う気がする。
「なんだ……?」
 今まで感じたことのない違和感に、胸騒ぎがした。
 机上に置かれたオーグマーが目に留まり、そっと手を伸ばす。恐る恐る握り、頭に装着。オーグマーの起動シークエンスが一瞬表示され、すぐに今日の天気、現在時刻などが視界に現われた。
「ユイ?」
 再び名前を呼んでみたが、十秒以上が経過しても応答はない。
 けれど次の瞬間、目の前に光の粒が集結した。眩しさに思わず目を覆うと、それらは俺と同じくらいの高さまで積み上がり、人を模って行く――。やがて光が収束し、その中から一人の少年が現れた。黒地の、けれど地味ではなく気品のある上質そうなジャケットの裾がふわりと浮き、ゆっくりと治まる。
「お……れ……?」
「そうとも言えるが、そうでないとも言える。……なるほど、ユイはこんな風に見えているのか」
 《黒髪の少年》は閉じていた目を開くと、興味深そうにきょろきょろと部屋を見回した。一方、俺はどう反応すればいいのか解らず、唖然とした。
「ああ、すまない。しかし……思ったより驚かないんだな。自我が崩壊しそうになったらすぐ撤退しようと思ってたんだが、これなら問題なさそうだ」
「えっとー……驚いてはいるんだけど、どう反応すればいいのか……」
「そうか……まあ、無理もないな」
 姿かたちは俺と変わらない……いや、今の《俺》とほぼ一緒なのだ。鏡写しでも見ているかのように一緒。《俺そのもの》と言っても過言ではなかった。
 けれど、まるで雰囲気が違う。言葉の端々や仕草から発せられるオーラが、オーグマーを通した映像でしかないはずなのにとてつもない畏怖を感じる。
 いや、それよりも。
「なあ、ユイはどうしたんだ? どうやってオーグマーを通して出てきてるんだ? そもそも、おまえは誰なんだ……?」
「そう矢継ぎ早に質問されてもな……。そうだな……まずは俺について話した方が良さそうだ」
 俺によく似たそれは机に寄りかかり(実際は現実のものに触れられないためそう見えるだけ)、腕を組みながら話し始めた。
 《星王》と名乗ったそいつは、俺であって俺でないもの――俺が《アンダーワールド》から帰還後、消去された記憶のコピーだという。正確には、俺が《桐ヶ谷和人》として生を受けてからの記憶も含め、俺が経験してきた全ての記憶を持っている。どうやら比嘉さんが削除前にやってくれたらしい。ちなみに、アスナの記憶は時間がなかったためコピーされていないそうだ。
 俺がユイを呼んでも出てこなかったのは、ユイがオーグマーから出てくる仕組みを借りているからで、今は眠ってもらっているらしい。
 それにしても、どうしてわざわざそんなことをしてまでここへ出てきたのだろうか。コピー元である俺の自我が崩壊する可能性だってあると解っていたのに、俺の目の前に突然現れたのは一体……。
「……王妃……アスナは、元気か?」
「あ、アスナ?」
 突然出てきた名前を反芻すると、星王キリトは音も無く頷く。その瞳はやけに真剣で、どう見てもふざけている気配はない。どう答えたものかと少し迷い、結局「元気だよ」と、至極シンプルな言葉になった。
「そうか。……まだ、学校では弁当を作ってきてもらってるのか?」
「あ、ああ、まあ……。毎日じゃないけど、一緒に昼飯が食べられる日は」
「そうか……」
 キリトはそれだけ呟き、安堵と哀愁を織り交ぜた表情でわずかに微笑んだ。アスナの名前を急に出してきたことに驚いていたが、その表情を見て何がしたかったのか理解できた。
 《星王キリトにとってのアスナ》は、もうどこにもいない。いつも俺と過ごしているアスナの中からは、UWで過ごした二百年の間のことは綺麗に消えていて、比嘉さんもアスナの記憶のコピーは取っていない。となると、その《二百年の記憶を持ったアスナ》は電子の海にも、そして現実世界にも存在しないことになる。共に二百年を過ごしたはずのアスナがいないということは、そのときの記憶を誰と共有することもできず、孤独な追憶になってしまう。
 もし俺が彼の立場にいたとしても、同じ思い出がなくとも今いるアスナに会いに行く、もしくは様子を見に行くかもしれない。少しでも、一瞬でもいいからアスナのことを想って、その温もりに触れていたいと思うだろう。そう考えると、自分のことのように胸が苦しくなった。
「そんな顔をしないでくれ。俺は大丈夫だ」
 突然そんな声が思考の間に挟まり、視線を上げる。すると、先ほどとは打って変わって、元の表情に戻った星王がいた。
 どうしてそんな真っ直ぐな表情で大丈夫だと言い張れるのか……。俺ではない、けれど俺のことだからこそ気になったことを、そっと口にする。
「……なあ、アスナには直接会わないのか?」
「ああ。様子が聞ければそれで十分だ。あまり混乱させたくない。それに……今の彼女が元気で、幸せならそれでいいんだ」
 言葉には一寸の迷いもなく、曇りもなかった。表情は穏やかで、《王》の名にふさわしく、まるで自らの国の民を見守っているような雰囲気を纏っている。これが、《俺》がかつて在った人物なのかと思うと、疑いたくなるくらい今の俺とは違う。
「……お前はすごいな。俺だったら、立っていられるか解らない」
「俺だって、何もなかったらここにはいないさ。アスナのいる場所が、俺の場所だってことに変わりはない」
「じゃあ、どうして……」
 すると星王は今まで見せたどの表情よりも真剣になり、俺と同じ黒い瞳の奥に金色の光が見えたような気がした。
「UWのため。……俺は二百年の間、アスナとずっとあの世界のために動いていた。現実世界の技術をあの世界用に応用したり、二度と大きな戦争が起こらぬよう、活動域を広げさせ、俺たちがいなくなった後もバランスを保てるよう全力を尽くしてきた。お前たちも見ただろう、空を飛ぶ《機竜》を」
「あ、ああ……UWに再接続したときすぐに……って、なんでそれをお前が知ってるんだ?」
「そのうち解るさ。……あれだけ我々があの世界を大きく変えてしまったからな。革命、と言うべきか。これまで大事に育ててきたんだ。あれを無に還すことは絶対に阻止したい。――いや、しなければならない。それが、あの世界の《守護者》としての責務でもある」
 守護者……。
 胸の裡で呟いたそれが、頭の中で重々しく響く。俺はごくりと唾を飲み込み、知らず、右手を強く握り締めていた。
 彼は……星王キリトは、その名に相応しく、UWのため、そこで暮らしているフラクトライトを持ったAIたちのために、その命を使い果たそうとするのだろう。《彼のアスナ》がいない今、彼に残されているものはそれしかない。そして、今や電子の世界の住人となった彼は、データが破壊、消去されない限り、消えることもない。だからこそ全力で、あの世界のために戦い続けようとしているのだろう。
 あの世界と、そしてそこに住むAIたちを守りたいという気持ちは俺も同じだ。まだしばらくはダイブできそうにないが、再びアリスを連れてUWへ行くため、何ができるかなんて解らないが、それでも、少しでも彼に助力したい。俺ではないが、俺であることにも変わりはないから――。
「そろそろ時間だな。俺は戻るよ」
 そんな声にハッとし、視線を戻し慌てて声を上げる。
「ま……待ってくれ! 最後に一つだけ聞かせてくれ」
「ん? ……ああ、そうだな。俺だけ訊いておいて不公平だ」
 いいぞ、と口元に微笑を湛えた《俺》に、ずっと気になっていたことを口にする。
「アスナ……二百年を過ごしたアスナは、笑ってたか?」
「……ああ、いつも俺の隣で。幸せそうに笑ってた」
 慈愛に満ちた黒い瞳が、彼女をどれだけ大切に想っているのかを物語っていた。
 UWで過ごした彼らの日々は、決して優しいだけのものではなかっただろう。けれど、そんな表情ができるくらい幸せな日々もあったのかと思うと、なぜか俺が救われたような気持ちになった。
「またな。……もう会うことはないかもしれないが。俺は、俺のすべきことをする。だから……」
「ああ。俺も、俺がすべきことをする。アスナと一緒に」
 俺が繋ぐようにそう言うと、星王キリトは方頬を上げ得意気に笑った。そして再び現れた眩いばかりの光に包まれ、一瞬にしてその姿を消した。
 直後、部屋を包んでいたいつもと違うような違和感が消え去り、静けさが漂い始める。俺も体の力が一気に抜け、どさりと背中からベッドへ倒れ込んだ。慣れないことをしたせいか、やや疲れが出たらしい。
 そういえば、ユイはどうしただろう。
「おーい、ユイいるか?」
 すると二秒ほどの間の後、
「はい! おかえりなさい、パパ!」
 と、いつもと変わらぬ鈴の鳴るような声が聞こえた。それに安堵し、「ただいま」と、応える。
「パパ、お疲れですか? でも、いつもより嬉しそうです」
「そうだな……ちょっとだけ、いいことがあったんだ」
 日常から一瞬切り取られ、また日常へと帰って行く。《俺》に会ったことで気持ちは今までと少し違うが、またやってくる新たな日常を俺たちは確かに進んで行く。
 俺自身と、周りにいる大切な人たちのために。

end
2018/05/19 初出