親愛なるあなたに感謝を込めて

 遠坂邸の玄関を開けると、家を出た時にはなかった甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。先程まで、衛宮士郎の家で漂っていた匂いと酷似している。
「この匂い……」
「おかえり、凛」
 凛が鼻をヒクつかせていると、奥から長身の男――凛のサーヴァントであるアーチャーが出迎えた。いつも戦闘時に纏っている赤い外套は見当たらず、黒いスラックスに黒いシャツという現代に馴染んだ服を身に着けている。オマケに、腰には彼が愛用しているエプロン。先程までキッチンに立ち《何か》を作っていたことは明白だ。
「ただいま、アーチャー。何か作ってたの? 扉を開けた瞬間から甘い匂いがしていたのだけど」
「ああ、丁度終わったところだ。早く上がるといい」
 言いながら、浅黒い無骨な手をこちらへ差し出す。脱いだコートをそこへ渡すと、皺にならぬよう極自然な所作で腕に掛け凛の後ろを付いて来る。これでは〝使い魔〟というより〝執事〟という肩書きの方がしっくりくる。
 ――ほんと、何でもできちゃうのよね……コイツ。
 凛は握った紙袋の持ち手をぎゅっと握り、小さく溜め息を吐いた。用意した《これ》だって、彼のものには劣るだろう。もしかしたら、渡さぬ方がいいのではないだろうか。
「凛?」
 僅かな心情の変化を感じ取ったかのように、僕の低くも気遣うような声が聞こえる。凛は艶やかな黒髪を靡かせながら首を振った。
「何でもないの。さ、お茶にしましょう、アーチャー。うんと美味しい紅茶を淹れてちょうだい」

 凛の予想通り……否、予想を遥かに超えて美味しそうな、そして見た目にも美しいチョコレートケーキがテーブルに出された。その隣では、きっと完璧な温度で淹れられたのであろう香り高い紅茶が湯気を立てている。
「今日はバレンタインデーなのだろう。だから、マスターのために少々凝ってみたのだが」
「バレンタインデーだからって……日本じゃ、女性から男性に贈るのが一般的じゃないの」
「別に、日本の風習に無理に倣わなくても構わんのだろう? むしろ、海外では男性から女性に贈るか、お互いに贈り合うのが一般的だ」
「それは、そうだけど……」
 それより、この英霊は一体どうしてそんな知識まで持ち合わせているのだろう。聖杯の知識はまさかこんなことにまで精通しているのだろうか。サーヴァントとして召喚される際、その時代の知識を聖杯から与えられると言うが、バレンタインデーにまつわる知識はどう考えても聖杯戦争には不要だし、知らなくとも生きていく上で何ら支障はない。
 聖杯戦争始まりの御三家の一つである遠坂の名に恥じぬよう、凛は単に魔術だけでなく聖杯についての知識も頭に叩き込んだつもりであったが、まだまだ解らないことも多い。
 ――これ以上考えてても仕方ない、か。
 考え始めると周りの事など気にもせず、とことん突き詰めてしまうのは悪い癖だ。思考が迷宮を彷徨い始める前に無理矢理戻し、「いただくわ」と一言だけ断りを入れてから、まだ温かさを保っている紅茶を口に含んだ。凛好みに淹れられたそれが、徐々に身体の緊張を解していく。
 次いで、艶やかなチョコレートがコーティングされたケーキをフォークで一口サイズに切り、口へ運んだ。
「美味しい……!」
「フッ……そうか。それは何よりだ」
 凛の正直な感想に、アーチャーは満足気な様子。心なしか、普段より眉間の皺が減っているような気もする。
 シェフは『少々凝った』と言っていたが、少々で済まされるものではない。贔屓目なしにそう言い切れる。ケーキを覆うチョコは甘すぎず苦すぎず。中のスポンジだって口の中で溶けてしまいそうなほどふわっとしていて、生クリームにはカシューナッツが使われているのか、ナッツの香ばしい香りが仄かに口内で広がった。
 アーチャーの料理は和洋中何をやらせても完璧であるし、凝ったものだって普段から作ってはいるが、今日のはまた格別だ。これではメディアによく取り上げられる洋菓子の名店だって泣き出すに違いない。
 あっという間にケーキを平らげてしまい、凛はすっかり気持ちが緩んだ状態で紅茶を飲んだ。まるで執事な彼を召喚してからティータイムが毎日の楽しみになっていたが、今日は更に良い時間を過ごせたような気がする。ホッと一息吐いていると。
「凛、ところで今日は朝から衛宮士郎の家に行っていたようだが、用は済んだのかね」
「!」
 思わずティーカップを落としそうになり、慌てて指先に力を籠める。
 お得意の〝うっかり〟がこんなところでも発動したのか、アーチャーの作ったケーキに夢中になっている間に、自分の隣に置いた紙袋の存在をすっかり忘れていた。思い出して良かったような、思い出したくなかったような。何せ、これでもかというほど完璧なチョコレートケーキを食べてしまった後だ。渡すに渡しづらい。
「……凛?」
「あ……え、ええ。衛宮君というか、桜と約束していたことがあったんだけど、ちゃんと済ませたわ」
「それは良かった。……ところで、先程から君の横に置かれている紙袋は何かね」
 ああ――訊かれてしまった。いや、こんなところにずっと置かれている上に一度も取り出す素ぶりなんて見せなかったのだから、気になって当然だろう。ここで「べ、別にアンタには関係ないわよ!」と渡さぬ手段もあるが、押し付けるチャンスでもある。この機を逃せば、渡せるタイミングは二度とやって来ないかもしれない。
 ――遠坂たるもの優雅たれ。ここで焦っても仕方がないわ、遠坂凛。せっかく作ってきたんだもの。渡すだけ渡して、食べるかどうかは彼が決めればいいこと。
 胸の裡で自らに言い聞かせると、凛は意を決し立ち上がり、紅茶のポットを片手に装備したまま立つ目の前の従者へ紙袋を押し付けた。
「これは……」
「貴方にあげる。さっき衛宮君の家に行ってたのは、桜と一緒にこれを作ろうって約束をしていたからよ。いつも家のこととか任せっきりだしね。……まあでも、アーチャーが作るお菓子には敵わないだろうし、食べるも食べないも好きにしたらいいわ」
「君が、私に?」
「え、ええ、そうよ。このわたしが貴方のために時間を割いて作ったんだから、食べないにしても、ちょっとくらい感謝しなさい」
 凛はひとしきり言い終わると、ぷいっと使い魔から目を逸らした。最初は良かったのに、徐々にいつもの悪態が出てきてしまって頭を抱えたくなる。もう少し素直になってもいいのではないだろうか、自分。
「凛」
 名を呼ばれそちらを見ると、凛の気持ちも余所に、こんな表情もできたのかというほど穏やかな顔をした弓兵の姿。
「とても美味だ。まさか君から貰えるとはね。正直驚いたが、この上なく嬉しい」
「そ、そう……それはよか……って、もう食べたの!?」
「ああ。他でもないマスターが私のために作ってくれたのだ。食べない選択肢など最初から持ち合わせていない。それに、凛が作ったのだ。美味しくない訳がなかろう」
 このサーヴァントは、どうしていつもこう気障ったらしいことを平然と口にするのだろう。お陰でこちらが恥ずかしくなってしまい、まともに顔も見れない。加えて、喜んで貰えたのは嬉しいが、いつも皮肉ばかり言う彼だ。まさかその皮肉が一つも出てこないとは思いもしなかった。
「ありがとう、マイマスター」
「……どういたしまして。こちらこそ、いつもありがとう、私のアーチャー」
 何時になく素直な僕に、凛も自然と真っ直ぐな気持ちが零れた。
 たまにはこういうのもいいのかもしれない。そう思った二月の十四日。

end
2019/02/15 初出