「あ」
セオが自室を出て格納庫へと続く廊下を歩いていると、前から歩いてきたのは
黒染めだった軍服は、いつの間にか八六区でも見たことのある紺青になっていて、赤くなっていた髪の一房は元の銀色になっていた。シンが言ったから、というのを知っているから、なんというか、無理矢理砂糖でも食べたような気分になる。
そんなセオの内心など当然知るはずもなく、レーナは近くまでやって来てにこりと笑った。
「セオ、お疲れさまです。これから格納庫ですか?」
「まぁね。〈ラフィングフォックス〉の整備が終わったから確認して欲しいって言われて」
「そうでしたか。……あ!」
突然何やら思い出したように、レーナが声を上げた。
「ずっとセオにお礼を言いたかったんです」
「お礼……?」
何の話だろうか。身に覚えがなくセオは首を傾げる。
〈ヴァナディース〉のパーソナルマークを描いたこと? しかしあれは初めて見せたときに何度も感謝の言葉を述べられた。……悪い気はしないがあまりに言ってくる上に気恥ずかしさもあったため、「もう分かったから」と強制終了させたのだが。
「ええ。……八六区で、まだわたしがスピアヘッド戦隊の
「うわ。まだ覚えてるのそんなこと」
まさかそんなに前の話が出てくるとは思わなくて、セオは顔をしかめる。
言ったことは本当のことだったし、それについては何とも思っていないが、一気に膨れ上がった怒りの感情のままにぶつけてしまったことは後悔していた。それを心残りがないようにと気遣って、レーナが謝る場と全員の名前を聞く場を設けたのが、シンだったわけだが。
しかし今その話を出されるのは、ちょっと……いやかなりやめて欲しい。できればさっさと忘れてしまいたい出来事の一つでもあるのだから。
けれどセオのそんな気持ちを余所に、レーナは大事な秘密でも打ち明けるかのように胸に手を当て、言葉を続ける。
「当たり前です。だって、あれがあったからわたしは考えを改められたんですから。……本当に、感謝してるんですよ」
花のように微笑む少女――――の後ろの方に、見慣れた黒髪と空色のスカーフが見えた。どうやらあちらも〈ジャガーノート〉の整備確認が終わったらしい。
こちらで会話している内容が気になるのだろうか、いつもより歩くスピードが早い気がする。それでも足音はしないのだから、本当にどうやって歩いているのだろうか。
いやそんなことより、早くこの場を立ち去りたい。
「セオは本当に仲間思いで、優しくて――……」
「あー……、うん、分かった。分かったから」
レーナには悪いが言葉を遮って。
「あとはそういうの、シンに言ってあげてよ。僕はそろそろ行くからさ」
少女の後ろを指さす。
「ふぇ!? し、シン……!? い、いいいいつの間にここに……」
「今来たばかりです。〈ジャガーノート〉の確認も終わったので」
淡々と応えるシンの表情はいつも通り感情の色が薄いが、なんとなく面白くなさそうな空気を醸し出している。……おそらく、本人は気付いてもいないのだろうから面倒だ。
「じゃ、僕は格納庫行くから。あとはよろしく」
溜息を吐きたい気持ちを抑えて、ひらひらと手を振りその場に二人を残す。あわあわと慌てるレーナの視線を感じたが、全部無視した。
そうして少し廊下を進んで行くと、後方から聞こえたのは小さな少年の笑い声と、やや拗ねたような少女の声。
「……本当に、なんであれで自覚ないかなぁ……」
二人とも、あれほど誰かのことには敏感なクセに、自分のこととなると途端に鈍くなる。
思わず出たぼやきは、誰に聞かれるでもなく基地の喧騒に掻き消された。
end
2023.10.29 初出