酒と女王と死神と

 どうしてこうなってしまったのか……。
 シンは頭を抱えそうになるのをぐっと堪えながら、隣で白磁の頬を真っ赤にしてにこにこと笑う銀色の少女をちらりと見やる。
 普段であれば絶対に見せないくらいに陽気で、〝鮮血の女王ブラッディレジーナ〟の異名の欠片もない。
「しん……?」
 舌っ足らずな銀鈴の声に、心臓が音を立てた。
 ――あれほど酒は飲まないようにと、言ったはずなのに。
 
 
 忘年会がやりたい! と言い出したのはいったい誰だったか。
 気付けば機動打撃群の中で忘年会の言葉が飛び交っていたためもはや発端は分からないが、とにかく、彼らとて戦場を離れれば好奇心旺盛な少年少女たちだ。忘年会が具体的に何をするのか分かっていなくとも、楽しいイベントであればやってみたいと思うのは自然な流れだろう。
 そんなこんなで、イベントごとに馴染みのないエイティシックスたちが言い出したことなのだから、連邦軍の大人たちだって黙っているわけにはいかない。それならばと張り切って当日用の酒の用意、食堂のコック長へ料理の依頼、日程調整等々に入った。……無論、自分たちも楽しむ気なのは言うまでもない。

 そんなこんなで着々と準備が進み、迎えた当日。
 エイティシックスたちが準備した余興に、食堂の調理要員たちが腕を振るった料理の数々、参謀長たちが用意した秘蔵の酒と、とにかく盛りだくさんで。
 ギアーデ連邦で酒が飲めるのは十八歳からのため一部プロセッサーは飲めないものの、周囲の雰囲気に酔ったのかいつも以上に皆テンションがおかしかった。
 シンもシンで目立って騒ぐことはないものの、会場となっている第一格納庫前の喧騒を見ながら穏やかな表情を浮かべ酒と料理を口に運び、〝忘年会〟と称されたイベントを楽しんでいた。すぐ近くにはレーナもいて、アネットやアンジュたちと談笑しているようで、時折見える笑顔にシンの口元が緩む。
「シン、お疲れ」
 呼ばれて視線を向けると、ライデンだ。
 シンの隣の空いている椅子にどんと腰を下ろして、グラスにワインを注いだ。
「リトたちの方に交ざってこなくていいのか?」
「勘弁してくれ。俺はもう十分だ。代わりに、お前行ってきてもいいんだぜ」
 ライデンが親指で指した方――リトやマルセルたちが集まる方を見る。
 何の勝負をしているのか、数名が軍服の上だけを脱ぎ半裸の状態で逆立ちやら腕立て伏せやらしている。この冬の寒い時期によくできるな、とか、リトは飲んでないはずだよな、とか。色々思って、シンは苦笑した。
「おれも遠慮しておく」
 肩を竦めながらそう言って、グラスに注がれたワインを呷る。これはヴィレムやリヒャルトが特別だからな、と振る舞った酒の一つで、酒を普段飲まないシンでも美味いと思うくらいには飲みやすい。
「そういや、レーナのところには行かなくていいのかよ」
「……今はまだいいかと思って。リッタたちもいるし」
 ……酷い言い訳だと、シンも内心思う。
 自分だってもちろん彼女の近くで一緒に過ごしたい気持ちはあるが、楽しそうに会話しているところに入っていくような無粋な真似はしない。……相手がシデンだったらまた違ったとは思うが。
 それに、レーナとは部下と上司の関係でしかないのだから、自分にそんな権利もないだろう。
 数ヶ月前の、盟約同盟での休暇の時。最後の夜のパーティーで気持ちを伝えようとして、結局最後の最後で機を逃して伝えられずに終わった。そこからずるずるとここまで引っ張ってしまっていて、顔には出さないが内心ひどく落ち込んでいる。
 せっかく伝えるなら喜んで欲しいし、それなりに雰囲気がある時がいい。……などと少しだけ恰好をつけようとして言えずにいるのを自覚しているから、尚更へこむ。
 いい加減、腹を括って言ってしまうべきなのだろうが……。
 そんなことを考えていると、ライデンに呆れたような溜息を吐かれてちょっといらっとした。
「いつまでもこのままだと、すぐ次の作戦が始まっちまうぞ。逃げてねぇで、さっさと言っちまえよ」
「…………何度か言おうとしてるけど、タイミングが――」
「ちょっとレーナ! あんた真っ赤じゃない!」
 被せるように耳に飛び込んできたアネットの声に、シンとライデンが同時に顔を向けた。
 向けて、ぎょっと瞠目する。
 そこにいたのは、つい先ほどまで楽しそうにしていたレーナ……いや、今も楽しそうではあるが、明らかに様子がおかしい。ふにゃりと頬を緩めながら頭をふらふらさせ、白銀の双眸は焦点が合っていない。
 もしかしなくても。これは――。
 シンの脳裏に嫌な予感が掠め固まっていると、ぎんいろの瞳と目が合った。途端、満面の笑みを咲かせて。
「しん!」
 椅子から立ち上がったかと思えば、覚束ない足取りでこちらへ向かってくる。今にも転びそうな様子にシンも慌てて立ち上がり、レーナの元へ駆け寄った。
 しかし近付いた瞬間、ぽふ、となぜかシンの胸に飛び込んでくるレーナ。花の香りに混じる清酒の匂いと柔らかな感触に、こきんとフリーズする。それでも倒れ込まぬようにとバランスを取って、内心の動揺を押し隠しシンは問いかけた。
「……レーナ、酒を飲んだのですか? 飲まないようにと言いましたよね?」
「おさけ……飲んでませんよ? でも、なんだかふわふわします……」
 いったいどれほど飲んだのか。
 アネットの方に視線だけ向けると、察した彼女はグラスの半分ほどの位置を指で示している。
 前科があるため酒はあまり飲まないよう、この会が始まった直後に念を押していたのだが。誰かがレーナのグラスに注いだとしか思えず、シンは目を眇める。
 ぐるりとレーナがいた辺りを見渡して……視界の端に、癖の強い赤髪が掠めた。特徴的なオッドアイが、にぃ、と悪戯が成功したように笑って、ひらりと手を振りながらリトたちのいる方へと向かって行く。
 ……どうやら主犯は彼女らしい。途端にどうしようもなく苛立って舌打ちしそうになっていると、肩口に埋まる小さな頭がすり、とすり寄って、シンの意識が一瞬でそちらへ向く。
「ふふ……しんの匂い、すきです……」
「っ!?」
 甘えるような仕草と声音に、心臓がどくどくと脈打つ。内心混乱して、返す言葉が見つからない。
 ……本当に、どうしてこんなことになってしまったのか。
 というか、近い。あまりにも近い。
 見回さずとも周囲の視線が集まっていることが分かるし、どう考えても上司と部下の距離感ではない。
 この状態のレーナを誰かに見られていることも嫌で、できるなら早く彼女の部屋まで送り届けたいのだが。
 そわそわと落ち着けずにいると、銀色の頭が小さく傾いた。
「しん……?」
「………………レーナ、少し、離れてもらえませんか?」
 部屋に戻って休みましょうと、促すように背中を軽くぽんと叩く。
 しかしレーナは離れるどころか、どこにそんな力があったのかというくらいぎゅうぎゅうとシンに抱きついた。思わず上げそうになった呻き声を堪えていると、聞こえてきたのは、涙ぐんだような銀鈴。
「…………しんは、わたしのこと、いや、ですか……?」
「は…………?」
 一瞬何を言われたのか理解できずに固まる。
 レーナのことが、嫌……?
 そんなわけ、あるはずがなかった。
 嫌なら最初から彼女の指揮に従ってなどいないし、そもそも彼女に言葉を残そうとも、願いを託そうともしなかったはずだから。
 ――それに今は、自分の本当の願いにも気付いてしまって。だから、今更彼女を嫌だと思うことの方が到底無理な話で。
「……どうして、そんな話になるのですか?」
「だって、わたしから、……離れようとしてる、から……」
 言いながら、しおしおと萎びた花のように俯くレーナ。どこか拗ねているようにも聞こえるのは、都合のいい幻聴だろうか。
 嫌で離れようとしているわけではないのだが、レーナ(酔ってる)は勘違いをしているらしい。きっと普段であればそんなことは思わない――むしろ今の状況の方がおかしいと思うだろう。
 けれど正常な判断ができていない今、さすがに近すぎるからと言っても更に拗れそうで。
「……嫌では、ないですよ」
 ようやく絞り出したのは、たったそれだけ。
 するとレーナは様子を窺う猫のようにそろりと視線を上げた。
「ほんとに……?」
「ええ」
 ――むしろ、想いが抑えきれずにいるのだと伝えたら、彼女はどんな顔をするだろう。
 いっそこの勢いで、伝えられたら良かったのかもしれない。
 もっともそんな勇気はないし、この場で言うつもりはないけれど。
 いつか……いや。近いうちに。彼女が酔っていないときに。――これまで貰ったものを、少しでも返したいから。
 シンが微苦笑していると、レーナは安心しきったようにふにゃりと笑った。
「よかった……。しん、わたしも…………」
 言いながら白い瞼が徐々に落ちて、銀色の頭がとん、とシンの肩口に当たった。そのまま彼女の体から力が抜けて、崩れ落ちそうになるのを咄嗟に支える。
「っ、レーナ……!?」
 返事はなく、代わりに微かな寝息が聞こえるだけ。顔にかかった銀繻子がさらりと流れて、長い睫毛が覗いた。
 細くて軽い体は力を入れすぎては折れてしまいそうで、けれど手を離すわけにもいかずシンは呆然とする。気持ち良さそうな寝顔を見ては起こす気にもなれないが、このままでは風邪を引くし、体勢もつらい。…………何より、いつまでも彼女の寝顔を他の誰かに晒していたくない。
 動けずにいるシンに何を思ったのか。アネットがはぁ――……と深く息を吐いた。
「とりあえず、そのままレーナを部屋まで連れて行ってくれない? あたしたちも少し飲んでるからさすがに運べないし。あ、着替えはあたしとアンジュでやるから気にしないで」
「こっちもそろそろお開きになるみてぇだし、レーナ送ったらシンもそのまま部屋に戻っていいぞ。片付けはやっとく」
「……」
 助け船のつもりか。揶揄いのつもりか。――おそらく両方なのだろうその気配を感じ取って、シンは目を眇めた。単に気遣いだけならありがたいのだろうが、それもそれで少々複雑だ。
 嘆息して、すやすやと眠る銀色の少女を見る。こちらの気など当然知る由もない様子が、少しずるいなと思う。自分ばかりが感情を掻き乱されて、彼女に振り回されてばかりで。
 それが身勝手な思いだということも自覚しているから、口にすることはないけれど。
 端正な白皙に淡い笑みを浮かべて、シンは華奢な体躯を横抱きにした。今はともかく、彼女を部屋まで運んでベッドで寝かせるのが先だろう。
 後でまた、こういう場で飲み物から目を離さないようにと、酒は飲まないようにと伝えなければと心に決めて。
 
 
 ――後日。
 シンとシデンが顔を合わせる度に険悪ムードになり、それに慌てるレーナがいたとかいなかったとか。

end
2023.02.08 初出