忘れものを渡しに

「ノウゼン大尉、この後少しだけいいですか?」
 長い演習後のデブリーフィング。それも終わってばらばらとプロセッサーたちが部屋を退出していく中、シンが椅子から立ち上がったところで銀鈴の声に呼び止められた。
 今日は終始仮想敵機役アグレッサーを務めていたため、さすがに僅かな疲労を感じる。
 強すぎず、弱すぎず。ほどほどのところで手を抜きながらにしても、相手は全員号持ちのエイティシックスだ。いくらシンの右に出る者はいなくとも、油断すればこちらがやられてしまう。その上一度に十数機の〈ジャガーノート〉と一人で対峙しなければならないため、結局は何機もの〈レギオン〉を相手にするときと同等の集中力が必要だ。もっとも、が聞こえてこないことだけは、〈レギオン〉を相手にした場合と異なる点だが。
 ともあれ、特に問題はないのでこくりと頷いた。何の話なのかは分からないが、彼女に言われて断る理由などない。それにもしこの後出す書類の話ならば、なるべく多忙なレーナの負担も減らしたいしきちんと聞いておきたい。
 そうこう考えている間に、部屋の中には二人だけが取り残された。
 レーナはシンに座っていていいですよとだけ言って、部屋の扉を閉める。それからコツコツとブーツの踵を鳴らしながら――なぜか恥ずかしそうにシンの前までやってきて。
 両の繊手がシンの頬へ伸びた。
「レ、」
 紅い瞳を見開きながら零れた名前は、最後まで音にならなかった。
 ふわりと触れた唇。どこかまだ拙くて、けれど甘やかで、優しくて。
 重ね合わせていた時間はほんの数秒だったが、それでも彼女の感触を残すには十分だった。
 少しの距離が空いて、耳まで真っ赤になった上官が視界に映る。
「お……お返し、です」
「――――」
 何の、と考えかけたところで、演習に行く前のことかと思い至った。真面目な彼女のことだ。まさかこんなところで仕返しがあるとは思ってもみなかった。
 シンがフリーズしていると、レーナは照れくささを残しつつもくすりと花のような笑みを浮かべた。指揮官としてではなく、レーナ個人としての。他の誰かの前では見せない――シンにしか見せない、溢れる幸せを抑えきれないような。
「おかえりなさい、シン。演習お疲れ様でした」

end
2022.11.26 初出
2022.12.22 加筆修正