知らない景色の汀に立つ

 あおい波が寄せては返す、その汀に立つ。
 二人、裸足で並んで立って、遠い地平線を見た。空は朝靄のように白んでいて、どこか幻想的な空気を醸し出している。
 広大な海の音も匂いも、砂浜の感触も、シンはまだ知らない。だから今分かるのは、いつか本で見た砂浜の白と海の青さだけだった。
 手を繋いだ先にいる、白系種アルバの少女。なぜ彼女と手を繋いでいるのかと疑問に思ったが、不思議と嫌だと思うことはなく。むしろ、銀繻子の長い髪と紺青の制服が風に踊る様は、何故かずっと見ていたいと思う光景で。
「――ノウゼン大尉?」
 銀鈴の声に呼ばれ、血赤の双眸がそちらを向く。
 彼女の声も名前も知っている。姿も、数ヶ月前にあの篝花リコリスの花畑で〈ジャガーノート〉の光学スクリーン越しに見たから知っている。
 けれどこういう時、彼女がどんな顔をするのかはまだ知らない。だから表情は見えなくて、それが少し残念だった。ただ声には嬉しさが滲んでいて、シンの表情が僅かに緩む。
 
 
「――――少佐、」
 
 
 ぱちり。
 自分の声で目が醒めた。視界に入ったのは、プロセッサー用にとあてがわれた居室の無機質な天井。視線を窓の方へ動かすと、まだ陽は見えないが薄藍色に染まり始めている。
「夢、か……」
 普段あまり夢を見ることはない。〈レギオン〉の声を聞きながら、気付いたら眠っていて、気付いたら朝になっていることが大半だ。だから久しぶりに、しかもあれほどはっきりとした夢を見たことに少しだけ驚いた。
 いつか彼女に、死んだ彼らに見せたいと思った景色。旧共和国の救援作戦後の休暇中に行った、ユージンの墓の前で初めて口にしたもの。戦う理由はそれしかないけれど、今はまだそれでいいと思えた、たった一つの。
 ごろりと寝返りを打って、簡素なパイプベッドがきぃと鳴く。
 窓の向こうの色が徐々に白み始め、橙色が僅かに覗いた。
 ――海を。
 シン自身は、見たいとは思えない。なのに、夢で彼女と見ていたのは何故なのか。自分は、あの時何を彼女に言おうとしていたのか。
 ――考えても答えはすぐに出てこなくて、頭を振った。それ以上を望んでも、仕方がないから。
 気持ちに蓋をするように布団を被り直し、最近始めたロードワークの時間まで転寝することにした。
「……少佐」
 不意に零れた音はあまりにかすかで、布団の擦れる音に紛れてシンは気付かない。
 
 
 ぱちり。
 目が覚めると、リベルテ・エト・エガリテに臨時で建てられたプレハブ兵舎の居室の天井が目に入った。無機質で簡素な造りのそれは、大攻勢中の野営テントの粗末さに比べれば天と地の差で、隙間もなく雨風もしっかり防げる。
 おまけにに昇進したため一人部屋だ。階級については、他国へ指揮官として派遣するからという形だけのものでしかないが、おかげで一人部屋なのはありがたい。
 窓の外はようやく夜の闇から解き放たれようとしているところで、彩度の低いグラデーションが描かれている。
 ……つい先ほどまで見ていた夢と、同じような空。
 あの景色の中で隣に立って手を繋いでいた人影は、多分シンだった。あの静謐でどこか落ち着く声は何度も聞いたし、彼らを特別偵察へ送ってからも何度も思い返していたから覚えている。けれど姿は、最期まで見ることは叶わなかったからか、夢の中ですら朧気でよく分からない。しかしあれはシンだったと、そんな確信が不思議とあった。
 いつか読んだ本の中でしか見たことのない、青い海と白い砂浜。
 第一区の外にあまり連れて行ってもらったことはなく、加えて物心がつき始めた頃には戦争が始まってしまったから、実際に見ることはできていない景色。
 いつか行ってみたい。〈レギオン〉がいるから、まだ叶わない望みだけれど。戦争が終わった時には、きっと。――もういない彼らを連れて。
 いつもの起床時間にはまだ少し早い。だからもう少しだけ夢の余韻に浸っていたくて、レーナは白いシーツの中でゆっくりと瞼を閉じた。
 シン。
 胸の裡で、そっと彼の名を呼ぶ。
 ――わたしはこれからも、貴方が信じてくれたように先へ進んで行きます。
 
 
 
 
 
彼女が第八六独立機動打撃群ストライク・パッケージに配属されるまで、あと七日。

end
2022.08.05 初出
2022.09.07 加筆修正