失敗作の思い出

 一ヶ月の休暇と学校への通学が言い渡された第六八独立機動打撃群第一機甲グループ。それは総指揮官であるレーナも同じで、この期間中はシンたちと共にリュストカマー基地を離れ、書類上彼らの養父となっているエルンスト・ツィマーマンの邸やしきで過ごしている。
 今日は週に一度の学校が休みの日。現在邸にいるのはレーナだけ。
 ――ならば、この機を逃すわけにはいかない。
 レーナは買ったばかりのエプロンを装甲。長い銀繻子をポニーテールに縛り、戦場キッチンに立った。

***

「レーナ?」
「シン! おかえりなさい」
「ただいま。…………いったい何をやろうとしていたんですか」
 しばらくして。外出していたシンが帰ってきたようで、キッチンの入口から白皙の面が静かに覗いた。どこか嬉しそうな笑顔を見せるレーナとは裏腹に、血赤の双眸は怪訝そうに辺りを見回している。
 その視線にレーナはなんだか居たたまれなくなり、白い指先をもじもじと動かした。
「その……、学校の選択科目で調理実習を取ったのはいいのですが、未だに盛り付け係と洗い物係から抜け出せないのが悔しくて……」
 ――というのももちろん理由の一つではあるのだが、先日親友のアネットがお菓子の試作品をシンに渡しているところを目撃し、どうしてかそれを嫌だと思ったのが発端だった。
 幼少期から、没落した貴族とはいえミリーゼ家の令嬢として育てられてきたレーナは、手が荒れるから、危ないから……などとといった理由で、料理を含めた家事全般を一切やらせてもらったことがない。さすがに最近は多少服を畳めるようになってきたと思うし、机の上を拭くくらいの掃除もやる。が、基地にいるとどうしても料理をする機会がない。ましてや多忙のために食事が疎かになることすらあるのだ。料理をしている暇がそもそもない。
 そこでこの休暇中、エルンスト邸のキッチンを借りて何か作ろうと思い調理の授業も張り切っていた。……ものの、同じ授業を受けているフレデリカには呆れられるわ、それをアネットに話せば白い目で見られるわで散々な状態だった。
 今日は学校のない日で、レーナ以外は朝から予定があり不在。誰も見ていないところで特訓するには好都合のため、エルンスト邸に来てすぐにシンに借りたレシピ本――昨年の聖誕祭でエルンストから貰ったらしい――を見ながら簡単にできそうなものを選んで取り掛かろうとしていたのたが……。
 シンは一足先に用事が済んだのか、レーナが思っていたよりも早々に帰宅してしまった。がちゃがちゃと音を立てていたから、ここにレーナがいることにもすぐに気付いたのだろう。
「……おれが言うのもどうかと思いますが、細かく切りすぎてパンが原型を留めていませんよね。バターも皿に焦げ付いてますし。いったい何をどうしたんですか」
「………………」
 レーナはうぐ、と言葉を詰まらせて、そろりとシンから目を逸らす。
 さすがに包丁の持ち方は学校で習ったのか一見問題なさそうだが、シンからしてみればどこか危ない。間違えていつか指を切りそうで内心ひやひやする。もっとも、当の本人はそんなシンの心情など気付くこともないのだが。
 はぁー……とシンが溜息を吐くと、レーナはあわあわとしながら口を開いた。
「――あっ! そういえば、以前アンジュが、これを見ながらフレデリカとシンがフレンチトーストを作ったことがあると言っていました。なので、その……良かったら教えていただけないでしょうか……?」
 連邦へ来てすぐの頃、シンも料理は得意ではないと言っていた。後でライデンに聞いたところ、食べられるには食べられるが、あれは料理ではないとか、何もかもが雑だとか。
 けれどアンジュは、シンがフレデリカと作ったフレンチトーストは思わずシルバーを落としたくらい美味しかったと言っていて、同じレシピであればいくら雑なシンでも上手く作れるのではないかとレーナは思った。
 それに、シンと一緒にキッチンに立つというのもそうあることではない。作ったものを渡したかった相手ではあるが、きっと肩を並べて作るのも楽しい。
 ……先にそういうことをしていたフレデリカが羨ましい、という気持ちも少なからずあるのだが。
「ライデンかアンジュに教えてもらった方が確実かと思いますが」
「そうかもしれないですが……今はお二人ともいませんし……」
 待っていてもいいのだろうが、いつ頃戻るかなど聞いていない。夜には帰ってくるだろうが、それでは特訓する時間がなくなってしまう。それにやはり、シンと一緒に料理をしてみたい。
 返答に迷ったシンはしばらく逡巡してから、赤い視線をレーナへ向けた。
「…………まあ、卵の割り方くらいは教えられるかと」
「ありがとうございます! では、よろしくお願いしますね、シン」

***

 レーナの失敗作を一旦片付けて、冷蔵庫から卵を取り出した。ボウルの前で卵を持ち、白銀の双眸が隣のシンを見る。……余談だが、さすがにハンマーで割るのは間違った知識だというのは授業で学んだため、周りに物騒なものはない。
「ボウルの端に当てて割ればいいんですよね?」
「ええ。案外割れやすいので、力は入れすぎなくて大丈夫です」
 焰紅種パイロープの瞳に見守られる中、レーナはやや緊張しながら卵をこつんとぶつけてみる。しかしあまり手応えがなく、罅が入った様子もない。同じことを数回やってみても、やはり割れない。もう少し強めに、と意識しながらもう一度当てると、今度こそ卵に亀裂が入った。そっと両の繊手で持ち直し、ぱかりと半分に割る。と、自然の法則に従って黄身と白身がつるんとボウルに滑り落ちた。
 ――のだが。
「やっぱり殻が入ってしまいますね……」
 そう。ボウルの中には黄身と白身だけでなく、白い殻まで落ちていた。それも細かなものだけではなく、卵の半分ほどの大きさの。
 レーナは授業で一度卵を使った料理を作ったことがあり、その時は最初で勝手が分からないからと――情けない話ではあるが――フレデリカに卵を割ってもらった。思い返せばあのボウルには殻など入っていなかった気がする。その後何度か失敗しながら苦労して卵を割ったレーナだったが、その時も殻が入ってしまっていた。
 シンの前だから綺麗にできればと思ってはいたが、やはりそうは上手くいかないらしい。愁眉を下げてボウルの中を見つめていると、横で苦笑する気配がした。
「大丈夫ですよ、レーナ。おれも上手くは割れませんから」
「シンもですか?」
「ええ。それに、食べられれば問題ありません」
 しれっと言う彼の表情はふざけているわけでもなく、至って本気のようだ。
 たしかに食べられるのだろうが、さすがにこんなに入っているのはまずいのでは……とレーナは考え込む。考え込んで、いや絶対取り出した方がいいだろうという結論に至った。
「……もし取り出すにしても、必要な分だけ割ってから出せば問題ないかと」
 レーナが口を開く前にシンの声が聞こえて、なるほどたしかにと、ぽんと両の掌を合わせた。
「つまり、その方が効率的ということですね!」
 割る度に殻が入るのなら、それを毎回取っているのはたしかに効率が悪い。ならば全て割ってから殻を取り除くことに専念した方が作業もしやすい。さすがシンだなぁ……と感心するレーナ。
 一方で、シンはただただ面倒だと思っていただけなのだが、こうもにこにこしながら言われてしまうと、それ以上のことは何も言えず口を噤むしかなかった。
 残りの卵も割ってから、レーナはいそいそと大きな殻を拾う。取り出されたそれを、シンはやや面倒そうな表情で生ゴミに分別した。すぐにおおよそは取れたものの、白身の下や黄身の陰にはまだ細かな白い破片が残っていて、レーナはどうやって取ればいいのかと思案する。
「レーナ、これくらいなら大丈夫だと思います。ここに砂糖やミルクを混ぜて、切ったパンを浸して、焼くだけなので」
「この卵は直接フライパンに入れるものではないのですね。てっきり、パンと一緒に焼くのかと思っていました」
 レシピ本を見てもそこがどうにも理解しきれなかったのだが、パンを浸して味を付けるためだけのものらしい。それなら殻が付くこともそうそうないだろう。
 ……実際はそんなこともないのだが、残念ながらツッコミ役は現在不在だ。
「お砂糖とミルクはあらかじめ計量済みなので、これを入れましょう」
 一ミリたりともメモリのズレはありません。レーナが自信満々に口にする。
 それを見て、シンはどこか悪戯っぽい笑みを向けた。
「塩と間違えたりはしていませんよね?」
「さすがにそれくらいはわたしも分かります……!」
 いじわるです、とレーナが唇を尖らせると、シンはとうとう耐えきれずにくつくつと肩を揺らして笑った。

***

 卵液に砂糖を牛乳を混ぜ、切ったパンを浸し、ようやく焼く段階まで辿り着いた。ここまで本当に長かった……とレーナは一瞬気が抜けそうになって、いやまだこれからが勝負だと腕を捲りながら気合を入れ直す。
 そんな彼女を横目に見ながら、シンもふ、と口元を緩めた。
 実はレーナがパンを切ろうとした時の手捌きがあまりに危なっかしく、見守るつもりが見ていられなくなったシンが包丁を取り上げ全て切ってしまった。そのためしばらくむくれ気味だったのだが、パンを浸しながら歓談しているうちに機嫌も直ったらしい。
「フライパンを温めて、バターを溶かす――……」
 レシピに書かれた文字を視線で追って、その通りにレーナは手を動かす。シンも隣でじっと……火を扱い始めたため内心はらはらとその様子を見守る。
 フライパンを傾けややたどたどしい所作で満遍なくバターを広げたレーナは、たっぷりと甘い卵液を吸ったパンをフライ返しでゆっくりと取り出した。そうして熱々のそこへ、怖々と載せた――――のだが。
「ぁ、っ――!」
「レーナ!?」
 ぱちっと、溶けたバターが繊手に跳ねた。一ミリにも満たない程度の僅かな量だったが、熱された液体、それも油とれば痛みが走る。
 レーナは反射的に持っていた物から手を離し、右手をさすろうとして、横から伸びてきた大きな手に掴まれた。
「大丈夫ですか? 火傷は……していないようですが、念のため冷やした方がいいかと」
 そのまま蛇口の前に連れて行かれて、右手が流水に晒される。そのせいで余計に自分の体温が上昇しつつあることを自覚し、レーナは耳まで真っ赤になった。
「は、はい。でも、その、…………少し、近い、のですが……」
 萎んでしまいそうな声で伝えると、それでシンも気付いたらしい。
 いつもよりはっきり香る菫。触れた箇所から伝わる体温。少しでも動けば顔がぶつかってしまいそうな、その距離に。
「っ、すみません」
 慌ててシンが距離を取ると、レーナはふるふると頭を横に振る。
「い、いえ! わたしこそ……。でも、心配してくださって、ありがとうございます。やっぱり、シンは優しいですね」
 得意ではないと言っていた料理をこうして教えてくれていることもそうだし、今のように怪我をしそうになったこともそうだが、いつだって手を差し伸べてくれる。以前、雪の中で転びそうになったときもそうだった。
 シン自身は意識していないのかもしれないけれど、自然と、それが当たり前であるかのように振る舞える彼は本当に。ひどく優しい。優しすぎるから、心配にもなる。
 
 
 そんなふうに柔らかく微笑むレーナに、シンは何も口にできなかった。
 レーナによく言われるようになった言葉だが、そんな自覚はないし、そう言う彼女の方こそ優しいと思う。
 血に塗れた手に寄り添おうとして、いつか分かり合えるようにと言葉を掛けて、隔てられた壁の向こうに手を差し伸べて。――そんなレーナの姿が、シンにはいつだって眩しかった。
 
 
 ――そうして、二人とも思考に深けていたせいで。フライパンに載せたものの存在をすっかり忘れていて、焦げ臭さが鼻腔を刺激した。瞬間。シンとレーナは同時にそちらへぱっと顔を向ける。
「「あ」」

***

 なんとか無事に――一部焦がしたが――全てを焼き終えて、お皿に盛り付けた。そうして出来上がったフレンチトーストは、不恰好ながら上手くできた方だとレーナは思う。もちろんもっと綺麗な見映えを目指したかったが、それは次回以降の目標だ。
 ふわりと立ち上る湯気からは甘い香りがして、レーナは白銀の瞳をきらきらと輝かせた。
 焼きすぎてやや固くなってしまったパンへナイフを通して、一口サイズに切る。それをフォークに刺してから、シンへ手渡した。
「せっかくですし、シンも少し食べていただけませんか? 甘さは控えめにしたはずなので」
「……では、少しだけ」
 甘い匂いに僅かに顔を顰めたシンは、けれどレーナからそれを受け取る。そのままぱくりと頬張って、「甘い……」と一言。甘いものが苦手な彼には、やはりもう少し控えめな甘さの方がいいらしい。
 レーナはそれを見て苦笑してから、一口食べてみた。味は悪くない。やや焦げはあるが、食べられないことも――……。
 と思っていると、がり、という音が口の中で鳴った。思わず動きを止めて目を白黒させてから、恐る恐る再び口を動かす。もう一度がり、と硬いものを噛んだ感触がして、けれど吐き出すのも憚られて、ぎゅっと目を閉じながらごくりと飲み込んでしまった。
 全く味はなく、ただただ硬い、けれど歯で簡単に細かく砕けてしまうもの。心当たりは……一つだけあった。卵の殻だ。つい飲み込んでしまったが、本当に大丈夫かは分からない。
 レーナがそうしている間にシンが水を用意してくれていたので、それでごくごくと喉を流した。
「…………やはり、ライデンかアンジュがいるときに作った方が――――」
 良かったのでは。とシンが言い切る前に、レーナは首を横に振りそれを遮った。
「でも! その、シンと一緒にできてわたしは楽しかったです。こういうことは、基地にいるとできませんから」
 たしかに上手くいかなかったことも、反省点もたくさんある。シンが料理は得意ではないと言っていた理由も、……ライデンが言っていたことも理解できた。
 それを含めても、今日一緒にできたことは楽しかった。また知らない彼のことを、近くで知ることができたから。
 だから、きっと。いつになるかは分からないけれど。
「またいつか、一緒にやりましょう。そのときまでに、わたしももっと腕を上げられるよう頑張るので」
 面倒くさがりなシンをリードできるくらい、たくさん練習して。上達したときには、いつか。
 それでまた失敗してもいい。それも、彼との大切な思い出になるだろうから。
 見開く柘榴石の瞳にレーナが笑いかけると、白皙の面はぎこちなくもどこか嬉しそうに和らいだ。
「ええ。おれで良ければ、いつか」

end
2022.05.31 初出