篝花の野に咲く白銀の

「少佐、おれは……」
 キャノピを開き、体を操縦席へ縛り付けるベルトをナイフで切って、真っ赤な花野に降りた。
 突然所属不明のフェルドレスの中から人が出てきたことに驚いたのか、レーナは銀色の瞳を大きく見開きこちらを見つめている。そんなことよりその手に持ったアサルトライフルを構えるべきなのに、それをしない彼女にどこか安心している自分がいた。
 ――本当に、……貴女は迂闊で、あまりに無防備だ。
 思わず苦い笑いが零れる。
 ボロボロの共和国軍軍服。風に踊る銀繻子――なぜか一房赤い――もやや煤けて、白いだろう頬も僅かに汚れている。――必死に、彼女が生きてきた証だった。
 レイドデバイスに手をやり、先に立つ少女を同調対象としてみる。先ほど一瞬繋がっていたため、もしかしたら――――。
『――えっ?』
 一瞬の間の後。銀鈴の声と動揺する気配がデバイス越しに伝わって、ふ、とシンは吐息で笑った。
 そのまま一歩二歩と近付けば、華奢な体がおどおどとする様子が窺えて、無意識に頬が緩む。
「少佐」
『え…………、シン……?』
「ええ。おれです、ミリーゼ少佐」
 初めてその名で呼んでもらえたな、と少し嬉しくなる。
 そのまま足を進めていくと、ほどなくして、二人の間が六十センチほどまで縮まった。視線が絡んで、ガラス玉のような瞳が潤む。昇り始めた朝日が反射して、きらきらと輝いている。
 そこから零れて流れた一筋が、綺麗だ、と思った。
「……本当に、あなたなのですか……ノウゼン大尉。生き、て……」
 初めてデバイスを通さず聞く、澄んだ声が心地いい。いつまでも聞いていたいような気持ちで、シンは目を細めた。
「はい。シンエイ・ノウゼンです、少佐。……また死に損ないました」
 肩を竦めながら口にすると、銀色の双眸は今度こそ堰を切ったように涙を溢れさせた。ぽろりぽろりと。白磁の頬を伝って軍服を濡らしていく。けれど表情は必死に笑みを作ろうとしていて。――ああ、彼女はこんな顔で泣いて、笑うのか、となんとも言い難い感情が胸中を占める。
 けれどいつまでも泣かせてしまうのは嫌で、シンが一歩踏み出して指先を伸ばそうとすると、ざく、と近くで足音が聞こえた。そういえば、共和国の〈ジャガーノート〉が一機残っていたと思い出す。
「女王陛下泣かせてんじゃねぇぞ、死神」
「…………誰」
 思わず冷え切った音が出た。邪魔をするなとオッドアイのプロセッサーをじろりと睨めば、レーナが慌てた声を上げる。
「キュクロプス、大丈夫ですから……! その、わたしが勝手に泣いてしまっただけなので!」
 すぐに戻るので、とレーナが必死に説得すると、プロセッサーは納得のいかない様子で渋々頷いた。
「けど、女王陛下はあたしらのハンドラーだ。そこんところは覚えててくれよ、死に損ないの死神」
 は? と口に出さなかったことは褒めてもいい。それでもどうしようもない苛立ちが込み上げて、シンは内心舌打ちしながら、遠ざかるプロセッサーの背中に射殺せそうなほどの鋭い視線を送り続けた。
「すみません、ご迷惑を……」
「いえ……」
 申し訳なさそうな声音に視線を向けると、どこか困ったような表情を浮かべるレーナの姿。
 彼女に何も非はないのだから、そんな顔をしないで欲しい。これまでもきっと、自分の知らないところ、離れた場所で何度もこんな顔をしていたのだろうし、させていたのだろうが。
 ――けれど、今は目の前にいる。
 また僅かに離れてしまった距離を縮めようと足を一歩出すと、レーナは迷うように視線を泳がせてから一歩後ずさった。嫌だっただろうかと思いながらじっと見つめると、それを否定するように彼女は頭を振る。
「まだ、手を伸ばすわけにはいきません。ここは大要塞壁群グラン・ミュールの目と鼻の先ですから。……これでは追いついたとは言えません」
 そう言って微笑むレーナの瞳は真っ直ぐに、これから辿る道を見ているようだった。それがあまりに眩しくて、シンは血赤の目を細める。
「……ずるいな」
 小さく呟いてから、彼女の言葉を無視してその距離をゼロにした。手を伸ばして、少し引いただけで簡単に腕の中に収まる。その拍子にアサルトライフルがガシャンと音を立てながら落ちて、赤い花びらが舞うのが視界の端に映った。
 見た目以上に華奢な体に、力加減が分からない。これ以上強く引き寄せたら壊してしまいそうで、緩く腕を回すだけに留め、鼻先を銀繻子に埋めた。……今まで知らなかった、柔らかな花の香り。
「な……っ、た、大尉……!」
「少佐からは手を伸ばしていないでしょう。これはおれが、……ここで彷徨っていたおれが、勝手に少佐を見つけて手を伸ばしただけです」
 酷い口実だ。露骨な言い訳と共にこんなことをしている自分が最低だと思う。
 けれど、こうして彼女が生きているということを確認したかった。自分の願望で作り上げた幻ではないのだと確認したかった。……そう思った瞬間には勝手に体が動いていて、手を伸ばしてしまった以上もう遅い。
「大尉こそ、そんな言い方……ずるい、です……」
 か細い声が、シンの鼓膜を震わせた。同時に、そっと機甲搭乗服パンツァーヤッケの端を指先で握られる気配がして、ふ、と口元を緩める。
 拒絶することだってできたはずなのに、レーナはそれをしない。むしろ全てを受け止めようとするから、勝手に許された気になってしまう。
 いっそ、このまま連邦に連れて行ってしまおうかとも思った。せっかく生きて会えたのだから、このまま共に行ければ、と。
 けれどそれは彼女への侮辱だ。追いつきたいと、行き着いた先まで連れて行きたいと言ってくれた彼女への。だから、今言うべき言葉は――。
「――待っています。貴女がおれたちに追いついてくれるのを。その時まで、……また先に行きます、少佐」
「ええ。必ず、あなたたちに追いついてみせます。……そのために、ここまで歩んできたのですから」
 レーナの力強い言葉と表情に、シンも唇を引き結んだ。
 いつか彼女が追いつく時まで生きて、こんな戦場ではない景色を見せたい。彼女が行く先は、見るべき景色は、ここではないはずだから。
 次の瞬間、シンの耳にノイズが走った。血赤の双眸を眇め、遠方の空を睨む。
「大尉? もしかして――」
「〈レギオン〉がこちらに向かっていますが、――――連邦の先遣隊が来たようなので」
 大丈夫です。と言う前に、空の向こうで展開されていた阻電攪乱型アインタークスフリーゲに向かって攻撃が放たれた。
 輸送機から降りてきた少将が見えて、こちらもいい加減時間切れだ、と苦笑しながらシンはレーナと距離を取る。
「――――では、少佐」
「はい。……また、次に会える時まで」
 真紅の篝花の野。その中で、ボロボロになりながらも懸命に咲く白銀の花を忘れぬため、目に焼き付けるため。シンは真っ直ぐにその姿を見つめ続けた。

end
2022.05.23 初出