零れて滲んで

「あ……」
 数日前に初めて使い始めた包丁は、まだわたしの手に馴染んでくれない。それが他人の家の物だからなのか、わたしがキレイじゃないからなのかは解らないけれど。
 とにかく、そんな慣れない物を使っていたら指先から赤いものがぷっくり膨らんで、指を伝ってまな板に落ちた。切ってしまった、というよりも、奇麗な場所を汚してしまったことへの罪悪感で胸がいっぱいになる。ここは、わたしなんかが汚していいところじゃないのに。
 思わず俯いていると、隣でカタン、と音がして、傷付いたわたしの左手がふわりと浮いた。触れている手が先ほどまで鍋をかき混ぜていた先輩のものだと判り咄嗟に引こうとしたけれど、思っていたよりもしっかり握られているのかそれは許されない。
「桜、血が出てるじゃないか! 結構深いな……。ちょっと待ってろ、すぐ救急箱持ってくるから。それまで水道で傷口を洗っててくれ」
 わたしよりも必死な顔で、ちゃんと洗うんだぞ、とだけ言い残し、先輩は足早に居間を出た。遠ざかる背中を見送ることしかできなくて、わたしは再び指先を見つめる。真っ赤な液体はまだ止まらず、自然の摂理に従ってまた小さな斑点を作った。
「いたい……です。先輩…………」
 最初は気にするほどではないと思っていたのに、意識してしまえば指先はじんじん痺れるように痛い。痛いけれど、心の中はぽかぽかと温かい。
 温かくて、嬉しくて、涙が一筋零れる。それがぽたりとまな板に落ちて、赤が滲んだ。

end
2021.05.17 初出