指先を震わせながら分厚い魔術書を読んでいた凛は、もう我慢の限界、とでも言うようにしおりを挟み、バタンと本を閉じた。
それを机に置いて、つい数分前に私が淹れたハーブティーに手を伸ばす。時刻はもうすぐ深夜零時に差し掛かるというのもあり、眠りの妨げにならぬようノンカフェインだ。
凛はぎこちない動きで中身を一口飲むと、強張らせていた肩の力を少し抜いた。
「……寒い。いくらなんでも寒すぎよ」
「仕方あるまい。今年は酷い寒波がやってきているようだし、冬木も今夜から雪の予報が出ている」
雪が降る、というのを想像したのか。凛は赤いニットカーディガンの下でぶるりと震える。
ちなみにその下はいつものネグリジェだ。こういうときぐらいは厚手のものを着て欲しいのだが、寝苦しくなるため着たくないらしい。
「どうりで……暖房つけててもこんなに寒いワケよね。ただでさえこの家古いから暖まりづらいし。あーもう、もう少しこれ読んじゃいたいのに集中できないじゃない」
言いながら凛は指先へ息を吹きかけて温め、もぞもぞと両手を袖の中に隠した。そのままソファの上で膝を抱え猫のように縮まっている。家の中でしか見せないであろう姿が愛らしく、私は思わず緩みそうになる頬を必死で抑えた。
「今日は早めに寝た方がいいのではないか。日中であればもう少しましだろう」
「そうなんだろうけど、今日のうちにこれ読んじゃって、明日から本格的に色々試したいのよ」
「ならば、尚更早く寝て明日は早起きすればいい話だろう。もっとも、朝に弱い君ができるとは思えんが」
「うー……」
腕で顔半分が隠れたまま、傍に立つ私をじっと見据える青い瞳。おそらくは睨んでいるつもりなのだろうが、それがどれだけ私を煽っているのか彼女は理解していない。何度も言っている筈なのだが、意味が解らない、と聞く耳すら持たない。
そんな彼女に、ふと悪戯心が湧いた。
「――では、私が温めようか」
にやりと笑いながら言うと、凛は顔を上げて一瞬ぽかんとし、やがて耳まで真っ赤に染めながら口をわななかせた。
「は……はぁぁぁ!? あ、あんた何考えてんのよっ! あああああ温めるって、そんなこと――――」
「ほう。私はただ、お湯を沸かして湯たんぽでも持って来ようかと思っただけなのだが。いったいどんな想像をしたのかね、凛」
すると凛はほっそりとした指先をこちらに向けたまま固まり、ぐぐぐ……と悔しそうな表情で手を下げぷいっとそっぽを向く。
「うっさい! もう寝る! 明日はちゃんと起こしさないよ、アーチャー。…………あと、湯たんぽは欲しい」
「承知した。湯たんぽは上まで持って行くから、先に布団に入っているといい」
「ん」
最後に小声で可愛らしい要求をしてきたのは予想外だったが、それ以外はおおよそ私の予想通りの言動。らしくもなく笑いが込み上げてきそうになるのを堪えながら、スタスタと居間を出て行く小さな背中を見送った。
「さて、マスターご所望の物を早く持って行かねばな」
私は机上に置かれたままのティーカップとソーサーを台所へ運び、やかんを火にかけながら洗い物を片付けた。
***
「凛、まだ起きているかね。湯たんぽを持ってきたのだが」
「入っていいわよ。起きてるから」
凛の部屋の前で一応声を掛けてみると、はっきりとした声で返事があった。さすがにまだ眠れないのだろう。
失礼する、とすぐに扉を開けて、私は月明かりも入らない真っ暗な部屋へ足を踏み入れた。夜目も利く私は明かりを点けないまま天蓋付きの大きなベッドの側まで行くと、布団を頭まで被っている凛の姿。私が横まで来たからか、布団の端からちらりと深海色の瞳が覗いた。
「二階もあまり部屋が温まっていないな。早く布団にこれを」
やや熱いくらいの湯たんぽをタオルでくるみ枕元に置くと、凛はもぞもぞとそれを布団の中へと招いた。その熱に安心したのか、暗闇の中でも判るくらい彼女の表情が緩む。
「ありがと。布団も一枚増やしてくれてたのね。それでもちょっと寒いから、これがあると助かるわ」
「それはなにより。――さて、私は少しばかり屋根で見張りをして来よう。雪が降る頃には中に戻るよ」
おやすみ、と声を掛けながら布団をぽんぽんと叩き、凛に背を向ける。そのまま霊体化しようとした瞬間、くいっとワイシャツが引かれるような感触がした。
「む?」
首だけで後ろを見やれば、寒いだろうに小さな手が私のシャツを掴んでいた。「凛?」と訊ねてもすぐに返事はなく、視線を彷徨わせるばかり。それから数秒の沈黙が続き、凛はようやく口を開いたのだが――
「えっと、その……。ううん、やっぱり何でもない」
やはりその内容ははっきりしない。
「珍しく煮え切らない返事だな。ふむ……他にも何か温まるものを用意しようか? とは言っても、この家の暖房器具は少ないから、追加で湯たんぽを用意するか、ホットミルクでも作るぐらいしかできることはないが」
「そうなんだけど、そうじゃないと言うか……」
具体例を挙げてみてもどうやらその中に正解はないらしく、どうしたものかと溜息を吐いた。
「凛、今更遠慮することはないだろう。いつもの傲慢さはどこへ行ったのだ」
「あ、あんた人のことを何だと思ってんのよ!?」
「私の優秀なマスターであり、可愛さの判りづらい彼女だが」
「……なんか、ひとこと余計な気がするんですけど」
やや不満気に頬を膨らませながらジロリとこちらを睨む宝石の瞳。――ああ、だから君は可愛さが判りづらいと言うのだ。
私はフッと頬を緩ませながら、吸い込まれそうになる青を真っ直ぐに見つめた。
「何、それくらい気にすることはない。そこも含めて、私は君が愛しいと思っているのだから」
「な――っ!」
暗闇でも判るほど、一瞬で色白の頬が赤く染まる。かと思えば、羞恥からかバサッと布団を被り反対側を向いてしまった。普段の優等生然としている姿からは想像し難いほどに、年相応の少女らしい反応が可愛らしい。
自分でも判るほど緩んだ頬をそのままに、あやすように濡羽色の髪を梳いていると、耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな呟きが聞こえた。
「……背中、このままだと寒いじゃない」
「…………」
私は思わず固まる。つまり、それは――――。
「私が、君の布団に入ればいいのか?」
「だ、だから、そう言ってるじゃない」
「…………凛、君はもう少し素直になってくれるとありがたいのだが」
「う、うっさい! いいから、わたしが眠るまで背中温めて。あ、でもえっちなコトは禁止だから! ぜっっっったい、変なコトしないでよ!」
男に向かって〝背中を温めて欲しい〟と言いながら〝変なことはするな〟など、とんだ我儘というか、生殺しにもほどがある。凛が嫌がることはしたくないためできる限り堪えるつもりだが、私にとっては拷問のようなものだ。
「はぁ……」
大袈裟に溜息を吐きつつ、残念ながら断ることもできないため凛が空けたスペースへ潜り込んだ。そのまま華奢な体を引き寄せ、背中を覆うようにそっと抱き締める。鼻先を小さな頭に寄せると、独特なハーブの香りが鼻腔を掠めた。
「……これでいいかね?」
「ん、あったかい……」
凛の顔は見えないが、小さな肩から力が抜けるのが判る。腹の前で重ねた私の手に冷えた指先が添えられたため、それをそっと掴んで掌に閉じ込めた。
どうやら湯たんぽは足元に追いやったらしく、そちらの方は僅かに温かい。
「アーチャーの手、温かい……」
「君は冷え切っているな。やはり暖房器具を買うべきか。せめて電気毛布ぐらいあってもいいだろう」
「いいわよ、そんなの。アーチャーがいれば……寒くないし…………」
眠気に襲われているのか、語尾が徐々に小さくなったかと思えば、やがて小さな寝息が聞こえてきた。凛の安心しきった様子にやや複雑な気持ちを抱えながら、私は溜息を零す。
「まったく、私は湯たんぽではないぞ」
もっとも、今後こういった機会が増えるのであればそれもいいかと思ってしまう自分も自分なのだが。
苦笑しつつ、眠る少女を抱く腕に力を込める。これくらいはいいだろうと、首筋や耳、髪に触れるだけの唇を落とした。
「おやすみ、凛。いい夢を」
眠るまでと言われたが、夜中に目が覚めてもいけないし、朝までこうしていようと私も目を閉じる。
日が昇り始めたら少女のいとけない姿を目に焼き付けて、それから起こしてやるとしよう。ずっとベッドにいたのかと、彼女は慌てるだろうか――。
想像して、意図しない笑みがクスリと零れた。
end
2021.01.12 初出