「……凛。いつまでそこで伸びているつもりかね」
「う〜〜……仕方ないじゃない……さっきから、頭……ふわふわしてるんだもの……」
「……はぁ」
やや気怠げな返事に、これでは埒が明かんな、と男は肩を落とした。
アーチャーのマスターである彼女――遠坂凛は現在、普段の様子からは想像もつかないほどソファで伸びきってしまっている。色白の頬は薄らと朱色が差し、サファイアの瞳はとろんと蕩け、長い黒髪は座面で無造作に広がる。緩んだ口元はまるで猫のようでもあった。
こうなってしまった原因は、三十分ほど前までいた衛宮の家にある。
凛は月に何度か衛宮邸に呼ばれ団欒に混ざって夕餉を囲むことがあり、今月は今日がその日であった。アーチャーは言わずもがな、あの家には行きづらい事情もあり遠坂邸で留守番。もちろん、頼まれれば送迎くらいはするが。
団欒の場には、衛宮士郎、セイバー、間桐桜、ライダー、藤村大河が普段顔を揃えている。しかし、今日に限っては珍しくイリヤスフィールも来ていた。そしてそのイリヤスフィールが持ち込んだ〝ある物〟こそが、凛がこうなってしまった原因でもある。
「凛、眠るなら寝室で寝たまえ。そのままでは風邪を引く」
「むぅ……じゃあ、アーチャーが連れてってよ……」
はい、と仰向けのまま両腕をこちらに伸ばしてくる。どうやら本気らしい。いつもアーチャーが無理矢理抱き上げて運ぼうとすれば暴れるため苦労するのだが、逆にこうして積極的な態度を取られるとやや調子が狂う。
抱き上げた瞬間にガンドを打たれないかとヒヤヒヤしつつ、アーチャーは凛の背中と膝裏に腕を差し入れそっと持ち上げた。するとそこにあるのが当たり前とでもいうように、すぐにほっそりとした腕がアーチャーの首へ伸びてくる。しっかりそれが固定された事を確認してから、アーチャーは二階へと向かった。……時折胸元に小さな頭が擦り付けられているのは気にしないようにしながら。
(いったい……どんな拷問だ、これは……)
大袈裟に溜め息を吐いてみせながら、アーチャーは階段を上り始めたのだった。
***
――――遡ること一時間前。
遠坂邸で食器の手入れをしていたアーチャーの元に、一本の電話が掛かってきた。
拭きかけのティーカップを持ったまま時計を見やれば、確かにそろそろ主人が帰ってきてもおかしくはない時間。しかし、無闇にアーチャーが家の電話に出るのもマズいからと言って、いつもならばレイラインを通して凛から連絡が入るはず。
首を傾げつつ暫くそのままにしていたが、電話が鳴り止む気配などない。アーチャーは訝しみながらも、仕方なく電話の元へ向かい受話器を持ち上げた。
「はい、遠坂ですが」
「あ、アーチャーさんですか?」
「君は……」
電話越しに聞こえてきたのは聞き慣れた声――凛の実妹である間桐桜のものだった。珍しい電話の主にやや驚いていると、申し訳なさそうな声が続いた。
「はい、桜です。急いで姉さんを迎えに来ていただきたくてお電話しました」
「凛を……? 何かあったのかね?」
「今日、イリヤさんも来てたんですけど、イリヤさんが持ってきた霊薬を間違って姉さん飲んじゃって……」
そこで言葉は途切れたが、それだけで事態を把握するのは容易だった。
現在イリヤスフィールがメイド二人、それからバーサーカーと住んでいる冬木郊外の城には、地下に蒸留所があると耳にしたことがある。本来の目的はワイン作りで、もちろん酒の類も作るようだが、さすが錬金術に長けた魔術師の家系と言うべきか。時折〝霊薬〟を作ることもあるらしい。
霊薬とは魔術的な効果が込められた液体の薬で、例えばサーヴァントは霊体故に酒を飲んでも酔うことはないが、この霊薬はその霊体にも影響を及ぼす力がある。魔術絡みのもののため、その効果は精製する者によって様々。身近な例を言えば、ギルガメッシュが子供の姿になっていることがあるのも、霊薬によるものだ。もっとも、ギルガメッシュの持っている霊薬は彼の〝宝物庫〟に元からあったものらしいが。
イリヤスフィールはこれまでにも実験と称し、飲んだ者自らの精神が好きな動物になるもの、精神と肉体どちらも幼児化するものなど…………。とにかく餌食にはなりたくないと思わせるようなものばかりを作り、その度に誰かに飲ませている。効果が中途半端にしか表れなかった物もあったが、今回はどうやら当たり――いや、ハズレと言うべきか――を引いてしまったらしい。
イリヤスフィールの霊薬には凛も警戒していたはずだが、いつものうっかりで飲んでしまったのだろう。
想像するに容易い展開に、アーチャーは思わず呆れ混じりの溜め息を吐いた。
「…………了解した。すぐそちらに向かおう」
「はい。お願いします……あっ、姉さん! ダメですよ今一人で外に出――――」
ブツッ。最後に怪しげなやり取りを残して電話が切れる。
ツーツーと受話器で繰り返される音に一抹の不安を煽られ、アーチャーは急ぎ衛宮の家へ向かった。
「アーチャー!!」
衛宮邸に着いて早々出迎えてくれたのは、他でもないアーチャーのマスター、遠坂凛。しかし――やはり様子がおかしい。
なにせ、アーチャーが玄関のチャイムを鳴らした途端、バタバタと足音を立てながらやってきたと思えば、ガラガラと扉を開け、ぴょーんと勢い良く抱きついてきたのだから。まるで猫がそうするように、小さな頭を男の硬い腕に擦り付けている。こんなに堂々と、しかも人目のある場所で抱きつかれるなんてことは絶対にない。
判りやすい可愛さと不意打ちに、思わずアーチャーは足を一歩引いた。
「り、凛!? 突然どうしたんだね!?」
「だって、早くアーチャーに会いたかったんだもの。……もしかして、迷惑だった……?」
「――っ!?」
凛の表情は、まるで恋する乙女そのもの。いつもきりりとしている形の良い眉は下がり、ブルーサファイアの瞳は不安に揺れる。
もちろん迷惑だなんてアーチャーは思っていない。思ってはいないが――――普段とあまりに違いすぎてこちらのペースを崩されそうになる。いっそ、今すぐ我に返ってガンドの雨でも降らせてくれた方が安心できるというものだ。
「ふふ。やっぱりリンに飲ませて正解ね。いつもと違って面白いもの」
冷や汗を流しながら内心狼狽するアーチャーを他所に、そんな弾んだ声が聞こえてきた。
「イリヤスフィール……これはいったいどういうことかね……」
「リンに新しい霊薬を飲ませたの。自分の欲に正直になる効果があるんだけど、今回は上手くできたみたいね」
冬の妖精は雪色の髪をふわりと揺らし、廊下でくるくると踊っている。楽しそうなのはなによりだが、標的にされたのが自分のマスターとなれば話は別だ。それに、この状況がいつまでも続くのは非常に困る。――色んな意味で。
「……霊薬の効果はいつまで続くのかね」
「ちょっとしか飲んでないし、寝て起きたら元に戻ってると思うわ。本当は一日中続いてくれたゆっくり観察できたんだけど」
「それならばまだ……。いや、霊薬の実験をするのは構わんが、ターゲットにするなら私のマスターではなく衛宮士郎にすればよかろう」
「シロウでもいいんだけど、やっぱりリンも楽しいじゃない? なかなか欲を表に出すことなんてないんだし」
そんなのは当然だ。彼女は遠坂の当主として、そして魔術師としての生き方を誇りに思っているし、常に魔術師としての考えを主軸に置いている。しかしその内面には、年相応の少女らしい表情も持っていることをアーチャーは知っている。故に、一度信じた者には甘い事も、普段の自分が邪魔をしてなかなか素直になれない事も。
もっとも、そんな彼女だからこそ、その全てを愛おしいとも思っているのだが――。
――――と、奥からさらにバタバタと足音が聞こえてきた。
「姉さん! イリヤさん!」
紅色のリボンを揺らしながらやってきたのは、アーチャーに電話を掛けてきた張本人、間桐桜だ。よほど慌てているらしく、その表情はいつになく必死。けれどそれも束の間で、玄関で凛に抱きつかれている男の姿を認めると、肩の力が抜けたのか僅かに微笑みを浮かべた。
「あっ、良かったぁ……アーチャーさん来てくれて。早く帰って姉さんを休ませてあげてください。霊薬を飲んでからの姉さん、ずっと様子がおかしくて落ち着かないし、アーチャーさんがここにいないって少し泣いたりもして、きっと疲れてると思うので……」
「泣いていた……? 凛が……?」
「はい……。霊薬の影響でここに来るまでの記憶が混濁していただけかもしれないですが、あんな風に泣いてる姉さん、わたしも初めて見ました。普段、泣きたくてもなかなか泣けない人ですから……」
素直じゃないんだから、と困ったように笑う桜ではあったが、「そこが姉さんらしいんですけど」と言葉を加える。
「……アーチャー」
そんな小さな声と共に、くいっとシャツが引っ張られる気配がした。アーチャーが視線を落とせば、紺碧の双眸がやや不満の色を露わにしてこちらを見上げている。
「ねぇ、早く帰りましょう。わたし、早くアーチャーの紅茶が飲みたいわ」
「あ、ああ……」
「えぇ――! もう帰っちゃうの? つまんなーい!」
真っ白な頬をぷっくりと膨らませ不満を顕にするイリヤスフィール。口をへの字に曲げ、もう少し遊ばせなさいと真紅の瞳が訴えてくる。
正直に言えば、アーチャーはこの少女のこういった表情に弱い。凛にも指摘されるくらい彼女には弱いと自覚しているが、関係が関係だ。つい甘やかしてしまうのはもはや仕方のないことだろう。
しかし、今回はそういうワケにもいかない。なにしろ凛がこんな状態なのだ。早く連れ帰って休ませなければ、いったいどんな行動をし始めるのかも判らない。アーチャーは心を鬼にして、小さな少女を真っ直ぐに見た。
「……そうも言ってられん。いくら霊薬の効果が単純なものとはいえ、この状態の凛をここに置いて行くわけにもいかんからな」
「なら、アーチャーもここに残ればいいじゃない!」
「しかし、私はここにいるべきではないだろう。家主の許可も貰っていないし、私もあまりここにはいたくない」
「元を辿ればアーチャーの家でもあるのに?」
「それはこの時間軸の話ではないだろう。今の私には何ら関係な――」
「ああ、もう!! わたしのアーチャーなんだから、わたしと一緒に帰るに決まってるじゃない!」
空気が震える。キイィンという音と共に、玄関の引き戸がカタカタと揺れていたような気さえした。耳元であったなら鼓膜が破れていてもおかしくはない。それほどの叫びだった。
水を打ったように廊下が静まり返り、つい数秒前までアーチャーと言い合っていたイリヤスフィールもぽかんと口を開けている。アーチャーもこうなることはさすがに予期しておらず、思わぬ凛の物言いに目を瞠った。
「…………ね、姉さんもこう言ってますし、早く帰ってください、アーチャーさん」
「そ、そうだな。では――凛、帰ろうか」
なんとか場を切り抜けたアーチャーが訊ねるように言えば、小さな輪郭がこくりと頷いた。くるりと廊下に背を向けたため、華奢なそれをそっと押す。促されるように凛は二、三歩足を進めていたが――
「――あ」
はたと何かを思い出したように立ち止まり、再び廊下の方へ向き直った。
「……ねぇ桜、今度は一緒にご飯作りましょう。また、貴女に料理教えて欲しいし……。それから、衛宮くんにもよろしく伝えてちょうだい」
「姉さん………はい……っ! それまでに、もっとお料理の腕を上げておきますね! 先輩にもちゃんと伝えておきます」
花が咲いたように顔を綻ばせる姉妹の姿に、アーチャーの口元も僅かに緩む。
普段の凛は素直ではない。それは、唯一血の繋がりのある桜に対しても。桜はもちろんそのことを知っていて、凛のツンツンした言い回しにも微笑んでいたりするが、やはりストレートな物言いはまた別なのか、いつもよりやや頬が赤い。
この場に水を差すようで申し訳ないと思いつつ、手を振り合う姉妹を横目にアーチャーは一つ咳払いをした。
「ああ、私からも一ついいだろうか――」
きょとんとする女性三人。しかしアーチャーの視線はそちらではなく、もっと奥――廊下の曲がり角を捉える。
「ライダーに伝えてくれ。盗撮した写真は一つ残らず消すように、と」
***
「さすがアーチャーですね。バレましたか」
「そりゃバレるだろ……」
悪びれる様子もなく微笑むライダー。いつどこで買ってきたのかも判らないデジタルカメラを片手に、盗撮した写真を一つ一つチェックしている。……こりゃ消しそうにないぞ、アーチャー。
「シロウ、凛とアーチャーはもう帰ったのですか?」
「ああ。あれなら無事に家まで帰れるだろ」
「それは良かった」
セイバーは安心した様子でホッと胸を撫で下ろした。
俺達三人が今いるのは廊下の曲がり角。玄関からだとちょうど死角になる位置だ。なぜこんなところにいるのかというと、玄関に向かおうとした俺とセイバーをライダーが引き留めたから。理由は――――遠坂をカメラに収めるため。もとい盗撮がバレる可能性があったからだ。
石化されそうな勢いで迫られたため渋々この場に留まったが、どちらにせよ、遠坂が関わることであいつにバレないようにする方が難しいだろう。
「ライダー、それどうするんだ?」
「もちろん消しますよ」
「へ……?」
意外だ。てっきり、そのまま消さずにどこかに隠すものかと――――
「二箇所……いえ、三箇所にバックアップを取ってから、このデジカメのデータは削除します」
――それ、消したことになるんだろうか。
アーチャーが帰る直前に言った言葉は俺に向けてのものだった。だからもしどこかにデータが残っているとあいつにバレたら、間違いなく俺が酷い目に遭う。というか、本気で殺されそうだ。正直それは勘弁して欲しい。
「ラ、ライダー……その写真……」
「ねぇライダー、わたしに黙って姉さんの写真を独り占めするつもりなの?」
いつからそこにいたのか。ライダーの背後には冷たい空気を放つ桜の姿があった。表情だけ見れば微笑んでいるようにも見えるが、近付いただけで動けなくなりそうなオーラを纏っている様は明らかに怒っている。おまけに、関係のないセイバーも俺の後ろでカタカタと震えていた。
怒らせると怖いのは遠坂も同じだが、それに迫るものがある。……やはり姉妹は似るということか。
「サ、サクラ……そ、その、これは……貴女のために……」
縮こまりながらライダーがそっとカメラを差し出すと、桜は一瞬でいつもの花が咲いたような笑顔に戻り、上機嫌でカメラを手に取った。
「ありがと、ライダー。貴女がいい子で嬉しいわ」
嬉しいのはなによりだが……その写真どうするつもりなんです、桜サン……? とはとても訊ける雰囲気にない。
そんなことを考えていると、桜の後ろから落胆の声が聞こえてきた。
「もー。本当に二人とも帰っちゃうなんて。あーあ、もうちょっとリンの面白いところ見ていたかったのに」
「仕方ないだろイリヤ。あんなんじゃ、いくら遠坂だって一人で帰らせる方が怖い」
嗜めるように言ったつもりだが、アインツベルンのお姫様は納得してくれる様子もなく、不機嫌そうに頬を膨らませた。
「むぅ……シロウもサクラたちの味方をするのね」
「う……」
少し拗ねたような言い方に思わず言葉を詰まらせる。
イリヤの言っていたように、うちに泊まってもらうのは別に構わなかった。部屋だっていくらでも空いているし、ただでさえ大所帯なのだ。今更一人二人増えたところでたいした話ではない。
しかしあの状態の遠坂を一人寝かせたとして、夜中にこっそり家を飛び出す可能性もあったし、アーチャーと泊まらせるにしても、俺の肩身がやや狭い。いやまあ、睨まれるのは俺だけだろうし、ちょっと寝た気がしないだけだろうから別に構わないのだが。
「ですが、今日はあれが正解だったように思います。凛も嬉しそうでしたから」
と、助け舟を出すようにセイバーが口を開いた。そこへ「そうですね」と桜が言葉を続ける。
「アーチャーさんの気配が玄関に近付いた瞬間、姉さん目を輝かせてましたから。いつもアーチャーさんの愚痴ばっかり言ってるようで、実はちょっと楽しそうなんです、姉さん」
「そ、そうなのか……?」
それは全然気が付かなかった。仲がいいことは判るが、遠坂が愚痴を零す度に「遠坂もあいつも大変だなー」ぐらいにしか思ったことがない。ライダーやセイバーを見ても頷くばかりで、どうやら俺意外は桜と同じ認識でいたようだ。
「士郎は鈍感なのですね」
「返す言葉もございません……」
可哀想なものを見るようなライダーの視線が痛い。そういうことに鈍い自覚はあるが、今すぐどうこうできる問題でもないので勘弁してくれると助かる。
そんなやりとりを他所に、桜がぽつりと呟いた。
「姉さん、今日くらいは思っていることを素直に伝えられるといいんですけど…………」
「今回の霊薬の効果は本物よ。あの強情なリンだって、今日くらいはいつも出さない欲に素直になるわ」
本当はそれをずっと眺めていたかったのに、とイリヤはそっぽを向いてしまった。
遠坂の普段出さない欲、というのはおそらくアーチャーに向けてのもの。俺達の前で泣き出したときは焦ったが、結局明確な内容は口にしなかった。だから、屋敷に帰って思い切り吐き出せばいい。……相手がアーチャー、というのは俺にとってやや複雑ではあるのだが。
「あの二人ならきっと大丈夫です、シロウ。お互いを大事にしている気持ちは、隠そうとしても隠し切れていませんから」
「……ああ、そうだな」
眩しいものでも見るようなセイバーの表情に頷きながら思う。今夜がどうか、穏やかなまま終われるように――――と。
***
閉められたカーテンの隙間から、一筋の銀光が射していた。薄暗い紺に包まれた凛の部屋に、たった一つの光の道。それは、衛宮邸からの帰りに凛と歩いてきた夜道のようにも見える。
凛を寝かせたアーチャーは、彼女の邪魔にならないようにとベッドの端に腰掛け、一連の出来事を思い出しながらそれを眺めていた。
桜は〝凛が泣いていた〟と言っていた。しかし、果たして自分がいないからと彼女は簡単に泣くだろうか……。
聖杯戦争が終わった今もサーヴァントたちが現界し続ける、ある意味異常とも言える現在(いま)。最初、契約を続けようと言い出したのは凛だった。アーチャー自身は目的もないし、いくら今ここにいるとはいえ、いつ座に還るのかも判らない。そんな危うい状況の中で彼女といるべきではないと考えていた。無論、彼女の将来を考えても。だから契約を続けるつもりはこれっぽっちもなかった。
そんな中で、それでも――と伸ばされた手を取ってしまったのは、ほんの僅かに残された未練のせいかもしれないが。
だから彼女は、いつアーチャーが消えても受け入れる覚悟があるのだろうと思っていた。何の前触れもなく、最初からそうであったようにいなくなっても――――。
「……ねぇ、アーチャー」
「む……?」
首を回して後ろを見れば、照れ臭そうに布団で半分顔を隠しながらこちらを見つめる青い瞳とぶつかった。
「何だね?」
アーチャーが問うと、彼女は微笑みながら――
「さっきは……迎えに来てくれてありがと。貴方と一緒に歩けて嬉しかった」
心の底から嬉しそうに、そんな言葉を口にした。
「……礼なら桜君に言いたまえ。私に連絡をくれたのは彼女だ。それに、主人を迎えに行くのはサーヴァントとして当然だろう」
「そう言われればそうなんだけど。でも……うん、アーチャーと並んで歩けたのが嬉しかったの。――特に、夜は久しぶりだったから」
言われてみれば。聖杯戦争が終わってから夜の見回りに行くのはアーチャーだけになっていたし、時折二人で買い物に出掛けることはあったが、それも昼間ばかり。凛が今日のように衛宮邸に夕食を食べに行っても、これまで迎えを頼まれたのは片手で数えるくらいだろう。
聖杯戦争中は毎夜街を駆け、空を駆けた。たった二週間ほどの期間だったが、二人で闇の中を行くのは最初から当たり前であったし、それを心地良いとも思っていた。
一般的に考えればそんな日々は非日常だし、そうやって周りを必要以上に警戒する必要のない今の方が尊ぶべき日常。そんなことはアーチャーとて理解している。理解してはいても、あの時間が知らず胸を躍らせていたことも事実だった。
(……いかんな。余計なことを考えてしまった)
アーチャーは思考を払うように頭を振ると、凛の小さな頭をぽんぽんと子供をあやすように撫でた。
「さて、もう寝たまえ。紅茶はまた明日の朝淹れよう」
「ま、待って……!」
アーチャーは余計なことをまた考える前に早く部屋を出ようと腰を浮かせる。しかしそれは、伸ばされた小さな手によって阻まれてしまった。
「ここに……わたしが起きるまで、隣にいて……?」
「は……?」
何を言われたのかアーチャーはすぐに理解できなかった。いくら素直になる霊薬を飲んでいるとはいえ、まさかそんなことを言われるとは思ってもいない男は即座に反応できず、ピシと音を立てて固まる。
そんなアーチャーの態度を否定的に受け取ったのか、凛は黒シャツを掴んだまま顔を俯かせた。
「だって……そうでもしないと、アーチャーどっか行っちゃいそうなんだもの……」
「――――」
アーチャーまでいなくなるのは嫌だ。と、普段とは比べものにならないほど弱気な声が告げている。
凛は幼い頃に妹と離れ離れになり、やがて聖杯戦争をきっかけに両親も失った。それでも人前では決して泣かず、魔術師として、遠坂の人間として、自らを奮い立たせながらこれまで過ごしてきたのだ。
無論、彼女はそれが当然だと過ごしてきただろう。しかしまだ年相応の少女でもある。言葉にはしないが、できるなら決して誰も失いたくないと思っていたかもしれない。――その中にアーチャー自身も含まれていると、自惚れていいのだろうか。
「……凛」
「アーチャー……?」
少女の名前を紡いだ声は思っていたより掠れてしまったが、それでも耳には届いたらしい。戸惑いを見せながら発せられた声音が心地良かった。
真っ直ぐ視線を合わせるように、アーチャーの大きな手が少女の頬に触れる。
「凛、私はどこにも行かんよ。ここが……凛のいる場所が、私の居場所だからな」
「……ほんと……?」
「ああ。むしろ――――むしろ、オレが君を手放せないんだ」
だから安心していいと、額同士をこつんと合わせた。暗闇の中でも輝く宝石のような瞳が大きく見開き、嬉しそうに弧を描く。
「……良かった。わたしも、アーチャーの、こと………………」
安心して気が抜けたのか、語尾が徐々に小さくなったかと思えばそのまま小さな寝息が聞こえてきた。心地よさそうに頬を緩めながら眠る様子は非常に愛らしい。愛らしいが故に、アーチャーは肩をすくめながら溜息を吐いた。
「やれやれ。こんな状況にあってもうっかりなんだな、君は」
それが彼女らしいといえば彼女らしいのだが。と男は苦笑。これではずっとお預けをされているような気分だ。
(その先の言葉が聞きたいと伝えたら、君はどんな表情をするだろうか)
もっとも、アーチャーと同じ想いを彼女が抱いているとは限らないのだが。それでも彼女の声で、言葉で、最後まで聞きたいと思った。
頬に当てていた手を滑らせ、濡羽色の髪をくるくると弄ぶ。それから再び頬をなぞって、親指の腹で桃色の小さな唇に触れた。
「――愛している。君のことを、誰よりも」
凛が起きているときにまだ伝えたことのない言葉は、今日も彼女の意識に入る前に空気に溶けて霧散する。けれどおそらく近い将来、直接伝える機会が巡ってくるのかもしれない。
そんな根拠のない予感をしながら、今日はこれくらい許して欲しいと滑らかな頬に唇を落とした。
end
2020.12.29 初出