「……凛、学校で何かあったのかね。先ほどから百面相している上、こちらに視線を向けようとしないが。帰宅して早々、挨拶もなしに部屋に籠もっているし」
「う……。な、何でもないわよ。ちょっと疲れてるだけ」
言って、凛はアーチャーと視線を合わせられぬようふいっと反対側を向き、淹れられたばかりの紅茶をちびりと飲んだ。普段と変わらぬ上質な香りと味の紅茶。しかしそれを堪能してる余裕など、今の彼女にはない。
学校で何かあったのか、というアーチャーの問いは正しかった。だからこそ余計にそれが脳裏に蘇り、ますます顔を合わせづらくなる。
ただでさえ帰路の足取りもやや重かったのだ。いつもは安堵する筈の、長い坂の先に見える屋敷の明かり。それも今日に限っては凛の緊張感を増幅させ、おかげで帰宅してそのまま自室へ直行したのだから。
(あんなコト……言える訳ないじゃない)
ちびり。再び紅茶を口にするが、残念ながら味が判らない。
凛がぐるぐると脳内で思考を巡らせている間も、後頭部に鋭い視線が浴びせられているのを感じる。当然だ。ただいまの一言もなく部屋に籠もった挙句、心配したアーチャーが部屋まで紅茶を運んできてくれたのに、こうして彼を無視してしまっているような状況なのだから。
しかし、どうしたって言える筈がない。心配してくれるのはありがたいが、本音を言えば今だけ……できれば明日の朝までは一人にさせて欲しかった。そうすれば多分、学校での会話など忘れいつも通りに振る舞える筈だから。
けれどそんな凛の心情など余所に、痺れを切らしたらしいアーチャーが動いた。
「凛」
低い声音で呼ばれ、思わず小さな肩をピクリと震わせる。
アーチャーの声は責めているようなものではなく、むしろ凛の全身を包むような暖かさを含んでいた。が、今の彼女にそれは逆効果だ。
次いで、大きな掌が凛の頭上にぽん、と載せられ、そのまま宥めるように何度も撫でられる。
「凛、君が言いたくないのであれは私はそれ以上言及すまい。だが、もし私が君の癇に障るような事をしたのであれば教えてはもらえないだろうか」
頭に触れている手は止まることを知らず、どこまでも優しい。いつもそれが気持ち良くてつい身を委ねてしまうのだが、今の凛は緊張感でいっぱいいっぱいだ。ずっと早鐘を鳴らし続けてきた心臓も、もう持ちそうにない。だから、これまでギリギリのところで保っていた凛の羞恥が臨界点を超えるのは必然だった。
凛は湯気が出そうなほど顔を真っ赤に染め、
「あーもう! だから、今は一人にさせて、って……」
「ようやくこちらを向いたな」
「あ、う…………」
勢い余ってアーチャーの方を向いてしまった。すると思いの外彼の端正な顔が近くにあり、鈍色の瞳が僅かに安堵の色を浮かべていたため、凛はどういう表情をすればいいのか判らなくなり俯く。
アーチャーのそんな顔を見てしまったら、自分が考えていたコトなど馬鹿らしいと凛は思った。たしかに恥ずかしさはあるが、彼にそんな表情をさせるほど思い悩むコトではない。
しかしどう切り出したものかと床に伸びるアーチャーの影を眺めていると、それがそろりと動き「凛」と呼ばれた。
「それで、一人にして欲しいなら私は居間に下りているが」
「いいわ。……もう、今更だし」
一旦姿を消そうとする男の黒いシャツを掴み、凛はふるふると首を振る。けれど顔を上げることはまだできず、男の影へと視線を落としたまま、小さな唇がそろりと言葉を紡いだ。
「――今日、クラスの子たちが雑誌を読んでたんだけど、そこに『ドキッとする彼氏の仕草特集』ってのがあったの。それで……、それ聞いてたら、アンタのこと思い出して」
「私のこと?」
アーチャーの問いにこくりと頷く。
「その……名前呼ばれたり、頭撫でられたり、抱きしめてもらったり……。そういうコトをつい考えちゃって、アーチャーと顔を合わせづらかった」
「? ……ああ。つまり君は、私で色々妄想してしまったことが恥ずかしかったという訳か」
その言葉を耳にした瞬間、凛は反射的に顔を上げ、色素の薄い双眸を真っ直ぐに見据えた。
「わ、悪い!? だって、しょうがないじゃない! いつもアーチャーにされてるようなコトばっかり書かれてたんだもの。…………こんなの、全然優雅じゃない」
皺が寄るのも気にせず、黒いシャツを握る凛の拳に力が加わる。
誰かのことを考えて自分の中で膨らませる……なんてコトはおそらく自然だ。学友たちの間でも「あの子はきっと普段こんな服を着ている」とか、「あの人はきっとキスが上手だ」とか。そんな噂話のような会話は時折耳に入る。凛とて「遠坂凛が彼氏にするならきっとこういう人だ」みたいな噂をされている側なのだ。
しかし、自分がそれをする側になるとは思いもしなかった。色恋沙汰に全く縁がなかったというのもあるが、そんなコトを考えてしまう自分が恥ずかしいし、はしたないという気持ちの方が強かったから。だからこうしてアーチャーのことを考えて、少女漫画に出てくる女の子のように胸をドキドキさせるようになる、なんて――――。
語尾をフェードアウトさせながら再び俯くと、数十センチあった筈のアーチャーの影がぴったり凛のそれと重なった。筋肉質な腕がふわりと凛の頭を抱き寄せ、服越しにも伝わる彼の体温に目を白黒させていると、再び名前を呼ぶ低い声音。
「凛、たしかに家訓とはかけ離れているかもしれんが、年頃の少女であればそういった事を考えても可笑しくはない。私がそれを聞いてどう思うと考えたのかは知らんが、君がそこまで想ってくれているのかと思うと、少々自惚れてしまいそうだよ」
「そう……なの……?」
「ああ。君は、私には勿体ないくらいだからな」
それでも誰にも譲るつもりはないのだと、アーチャーは自嘲するように笑った。
「……馬鹿ね、ほんと」
それはアーチャーに対しても、凛自身に対しても言える。
アーチャーの方が、むしろ自分には勿体ないと凛は思う。もっとも、凛も手放す気は全くないのだが。どれだけ捻くれていようと、自分がいい男だという自覚を彼はもう少し持ってもいいだろう。
そんな彼を、自分の気恥ずかしい妄想で喜ばせることができるのなら、これからもちょっとはそういうコトを考えてもいいのかもしれない。
しかしそんな風に考えた矢先。
「して、凛。君が私でいったいどんな妄想をしていたのか、一から教えてもらおうか。なに、ちょうど陽も落ちてきたし丁度いい」
「な、な、な――――わっ!」
突然何を言い出すんだと言うより先に、体が宙に浮いた。そのまま近くのベッドまで運ばれ、二人でそこへダイブ。凛の目線の先にはニヤリと笑うアーチャーがいて、どうやっても逃げられそうにはない。
(前言撤回! ぜっっっったい! もうアーチャーで妄想なんてしないし、もししちゃっても言わないんだから……!)
降ってくるキスの雨を受けながら、そう固く決心した凛だった。
end
2020.12.02 初出