そのネツに気付かないフリをして

「んっ……は、あ…………っ、あー、ちゃー……?」
「凛……すまない……」
「え、ちょっ、んんっ…………」
 気付いたら、目の前にそいつの顔があった。あまりに突然すぎて、自分が何をされているのかも理解できず。漸く理解した頃には、色々と手遅れなような気がして。
(なんで、わたし……アーチャーにキスされてるんだろ……)
 凛、と名を呼ぶ声はいつもより掠れどこか熱っぽくて、鷹の目はまるで獲物を狙うそれだ。
 反射的に身を引こうとしたけれど、頼りなくベッドのスプリングが鳴くだけ。おまけに、それに気付いたアーチャーはわたしの背中に両腕を回してしまった。
 力強い腕はわたしと離れることを拒絶していて、けれどどことなく優しい。その腕の中だとわたしが安心してしまうのを知っていて、こうしているのだろうかと思うくらいに。
 息を吸う暇もないくらい、何度も唇を重ねた。重ねる度に、心臓がバクバク音を立て、頭がくらくらとしてくる。まるで麻薬だ。
「……アーチャー……どうして……」
「――さてな。ただ……暑さで頭がいかれたのかもしれん」
(本当に――?)
 訊く前に、また唇を塞がれた。もう、諦めて身を委ねてしまおうと目を閉じた瞬間。

 ――凛。

 頭の中で、わたしを呼ぶ声が響いた。

***

「凛、いい加減起きたまえ。このままでは遅刻してしまうぞ」
「っ……、だめ……あーちゃ……。……ん…………?」
 ぱちりと目を開くと、黒いワイシャツに身を包み眉間に皺を寄せる男の姿があった。肩に載せられたままの大きな手に気付き、思わずガバッと起きて飛び退く。
 ――が、
「あっ……」
「おっと」
 低血圧のせいでふらつき、結局アーチャーの腕に支えられてしまった。その拍子に夢で見たことを思い出して、体温が少し上がったような気がする。
「まったく、いつも突拍子がないな、君は。家訓は忘れたのかね」
「あ、あああああああんた…………」
「む……? 私がどうかしたのかね?」
「どうしたもこうしたも……こんのエロサーヴァント!! 人のこと襲っておいて何よ!!」
 枕を掴み、そのままそれでアーチャーの顔面目掛けて殴った。とにかく殴った。「待てマスター!」「ええい、話を聞きたまえ!」と合間に聞こえたような気がしたけど、今はそれどころじゃない。
 しばらくして叩き疲れ息をぜーはーしていると、アーチャーは乱れた髪を直しながらじろりと訝しむような視線を送ってきた。
「……まったく……この暑さでとうとう頭がいかれたのかねマスター。だからあれほどエアコンを新調すべきだと――」
「ええい、うるさいうるさいうるさーい! い、いいから! アーチャーは先に下行って紅茶用意しておいて!」
「はぁ……了解した。あまり時間がないからな。早く下りてきたまえよ、凛」
 ぽん、と宥めるようにわたしの頭に手を置き、それから部屋を出ていく男の背中を見送る。
 ガチャと扉が閉まったのを確認してから、ベッドの上で膝を抱えた。
「……ほんとに……頭がおかしくなってるのはわたしの方かも……」
 唇にまだ柔らかい感触が残っているような気さえして、指先でそっとそこに触れてみる。なんだか悪いことをしているような気分になって、また小さく心臓が跳ねた。

end
2020.09.05 初出