過去・未来/夢

「■■――――ッ!!」

 ――そこで目が醒めた。上体を勢い良く起こし、視線だけで辺りを見回す。
 そうして、今居るのは遠坂邸の己にあてがわれた部屋だという認識と共に、アーチャーは長い溜息を吐いた。額に薄らと滲む汗を拭い、下りていた前髪を掻き上げる。
 すぐ横の窓をカーテン越しに見れば、闇色にぼんやりとした月明かりが広がり、その景色がまだ深夜だということを知らせていた。
「――まいったな」
 ひとりごち、再びふーっと溜息を吐く。主人の凛が聞けば、「ただでさえ幸運ランク低いのに無くなっちゃうわよ」とでも言いそうだ。そんなコトを考え、アーチャーの口元がニヒルに歪む。
 けれど目元まで繕うことはできず、いつも以上に深い皺が刻まれていた。
 サーヴァントは既に死している身……霊体故に、眠っていても生者と同じように眠るわけではない。そのため夢を見る事はないが、レイラインで繋がっている主人の記憶を見ることがある。それから、ごく稀にではあるが、自らの生前の記憶がフラッシュバックする事も。もっとも、前者に関しては凛自らが魔術的な対策をしているため、よほどのことがない限り覗いてしまう事はないだろうが。
 アーチャーの場合生前の殆どの記憶が摩耗しているため、これまで後者のような事が起こる可能性の方が低かったのだが、ラックの低さのせいなのか、記憶の片隅に残る断片を見てしまった。それも、あまり思い出したくなかった光景を。

 ――――昔、大切だった人のうちの一人を、目の前で喪った。

 見てしまったのはたった一瞬。しかしその一瞬が、何百倍にも引き伸ばされた破壊力を持っていたのだから恐ろしい。
「フッ……間抜けもいいところだ」
 きっと罰が当たったのだ。
 自分のような者が人並みの幸福など、やはり求めてはいけなかったのだ。
 その手は数多の人の血に濡れている。だから、生前も、そして今も憧れ続けている眩しい彼女に、今だけはと手を伸ばしてしまったのがきっといけなかった。
 聖杯戦争が終わり平穏な日常を送っているが、それでも最期まで彼女を傍で守護し続けることができるのであればと、差し伸べられた手を握ってしまったから。そんな優しい日々の中で幸せというものを少しずつ感じるようになってしまったから、お前はそちら側の人間ではないだろうと一気に現実に引き戻されたに違いない。
 無論、こんなこと彼女には言わないが。言えばきっと自分のために怒ってくれるが、それはあまりに心地が良すぎる。それに、消えるのであれば何も言わずに、最初からそうであったように消えるだろう。もっとも、それが正しいと解っていながら、手放したくないと思っていることも事実ではあるが。全く、とんだ矛盾だと皮肉に笑う。
 少し頭を冷やそうと、ベッドから下りたそのときだった。部屋の扉の前に少女の気配を感じ取ったのは。
「凛?」
 何故か扉を叩く気配も、開ける気配も一向に無く、ただその場にいるだけ。不思議に思いながらも、アーチャーは扉に近付きドアノブをゆっくり回した。
「あ……」
「こんな夜更けにどうかしたのかね、凛。何か用があるのなら遠慮せず入ってくればいいものを」
「あー……うん、そう……なんだけど……」
 迷い猫のように視線を彷徨わせ、翳りを見せる少女の様子に首を傾げる。いつもの歯切れの良さがなく、口にすることを躊躇っているような雰囲気が漂っていた。
「ごめん、やっぱりわたし部屋に――」
「凛」
 そのまま逃げようとする凛の手を引き、自室へ招く。
「ちょ、ちょっとアーチャー!」
 焦る声を無視して、ベッドに座らせた。アーチャーもすぐ隣に腰を下ろし、さて、と切り出す。
「何か言いたいことがあるようだが、黙っているのは君らしくないぞ、凛」
「解ってる。けど、こんなの……」
 顔は俯き、握られた小さな拳は爪が刺さるのではないかというくらい力が入っている。泣いているのだろうかと手を伸ばし、柔らかな頬をそっと持ち上げた。
 月明かりだけが頼りの中、鷹の目で凛の顔を覗き込むと、海の底の色をした瞳は泣いている……というより、怒っているらしい。思っていた様子と違うことに、ますます凛がこうなっている理由が解らなくなる。
「っ! 馬鹿! アーチャーのバカバカばか!」
「き、君なぁ……それがマスターを心配するサーヴァントに言うことかね」
「だって、あんな……あんなモノ見せなくたっていいじゃない…………」
 アーチャーの胸を叩く拳が、声に比例するように弱々しくなっていった。
 それで判ってしまった。凛がいったい何を見て、なぜアーチャーの部屋まで訪ねて来たのか。
 簡単な話だ。サーヴァントがマスターの記憶を見る可能性があるのなら、逆もまた然り。恐らくアーチャーが一瞬見たモノを、マスターである凛も見たのだろう。
 近くにいたはずなのに、大事な人一人守ることもできなかった。それでも愚かな自分は〝正義の味方〟を目指し、結局、信じた理想に縋り続けた。結果は……言うまでもないが。
 だから彼女が怒るのは当たり前だ。どうして近くにいたのに守れなかったのかと――――
「あのねぇ、別にアンタが思ってるようなことで怒ってるわけじゃないから。今にも死にそうな顔しないでよ」
 俯いていたはずの青い双眸が、いつの間にかこちらを盗み見ていた。
 アーチャーの考えを読んでいたのか、やや呆れ混じりにそんな事を口にする凛に目を丸くする。
「……ではいったい、君は何に対して怒っているのかね、凛」
「アンタに怒ってるとでも思った? 残念。アーチャーに怒る理由なんてないもの。ただ……怒ってるとしたら、アンタにそんな顔をさせたわたしにかな」
 あまりにあっさりと、アーチャーの考えていた事を切り捨てた。それ以外にどんな理由で怒るんだと、そんな風に言う彼女はやはり颯爽としていて彼女らしい。
「前にも言ったけど、それでもアンタは頑張って頑張って、誰に何を言われようと努力してそこに辿り着いたんでしょ。なら、それを怒る権利なんて誰にもないのよ」
 それに、と凛は続ける。
「あのわたしも魔術師だったんでしょ。なら、とっくに死の覚悟だってできてるし、満足して死んでいったはず。なのに、アンタがそんな顔してたら死んでも死に切れないじゃない」
 困ったように笑い、我武者羅な魔術行使で浅黒くなってしまった頬にその掌が添えられた。まるで、よく頑張ったわね、とでも言いたそうに。
 ああ、敵わないな。胸の裡でアーチャーはひとりごちる。いっそ責められでもすれば楽になれるものを、彼女はそれをしない。そんな彼女だったから、きっとこの先の時間を共にいたいと願ってしまったのだろう。
 ――愛おしい。
 想いが募り、アーチャーは自らの頬に伸びる手を掴むと、細い腰ごと抱き寄せた。
「な、なななな……っ! アーチャー!」
「凛……」
「アーチャー……?」
「…………」
 それ以上答えることはせず、少しだけ抱きしめる腕に力を込める。華奢な身体はすっぽりと収まってしまうのに、その存在の大きさにまた愛しさが湧き上がった。
「……ねえ、アーチャー」
 くいっとアーチャーの服を引っ張り、やや言いづらそうに凛が口を開く。
「その……さっきは、ごめん。アーチャーだって見せたくて見せたワケじゃないのに……」
 借りてきた猫のように大人しいと思えば、そんなことを言う。素直になれないのはお互い様だが、こんなところも可愛らしい。アーチャーは思わず口元を緩めた。
「なんだ、そんなことを気にしていたのかね。別に問題はない。何せ、君の癇癪には慣れているからな」
「あ、アンタねぇ……」
 唇を尖らせムッとこちらを睨む凛に、アーチャーは苦笑しながら顔を近付ける。途端、薄暗い部屋でも判るくらい頬を染め焦り出す凛が可笑しくて、吹き出しそうになるのを堪えながら額をこつんと合わせた。
「凛、私は君を死なせなどしない。必ず君を守る――今度こそ」
 深海の瞳を真っ直ぐに見つめれば、凛は少し拗ねたように言う。
「……そんな言い方、ずるいじゃない。でも……ええ、期待してるわアーチャー。あと、簡単にやられて座に帰ったら許さないんだから。その……紅茶入れてくれる人が居なくなったら困るし」
「フッ……そうだな」
 素直になりきれない彼女に今度こそ笑みが溢れた。
 誓いを込めて、唇を重ね合わせる。どこにも行かない。ただ君の傍に在り続ける。……まるで、祈りのようでもあった。
 名残惜しむように強く押し付けてからそっと離すと、再び小さな身体を強く抱きしめた。
「――凛、今夜は一緒に寝ないかね」
「……どうしたのよいきなり」
「いや、私も怖い夢を見てしまったのでね。人肌が恋しくなったのだよ」
「なんか、その言い方えっち。……いいわ、仕方ないから一緒に寝てあげる」
 感謝しなさい、と口では言いながら、頭を擦り付けてくる。それがまた愛らしくて、アーチャーも濡羽色の髪に顔を埋めた。
 彼女が一緒なら、もう大丈夫。
 怖い夢の代わりに、今度は彼女との未来これからの夢を見よう。二人、幸せに笑っている夢を。

end
2020.06.14 初出