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 夏の日差しも弱くなり、夕方になると肌寒さを感じる季節となった。
 あの日自宅で食事をして以来、明日奈が黒髪の青年と会うことはなかった。もちろん同じキャンパスにいるのだからすれ違うことは何度かあったが、特に言葉を交わすことも視線を合わせることもないまま時間だけが過ぎた。
 暑さもあってあのベンチで本を読むこともなかったのだが、最近になってようやくそれも和らぎ始め、むしろ読書には最適な気温になりつつある。
 明日奈久しぶりにその場所へ行くと、辺りの紅葉をしばらく見つめてから本を広げた。

「くしょんっ!」
 小さなくしゃみの音が耳に入り明日奈はぱっと視線を上げた。すっかり空は暗くなり始め、とても本など読めるような明るさではない。手元には開いたままの本と、どこからか飛んできた枯葉が一枚。どうやら読みながら眠ってしまっていたらしい。
 帰らなくては――と思ったが、視界の端に一瞬黒いものが映った。今日は確か薄茶色のカーディガンを着ていたはずだが……と黒いものを辿るように視線を上げていくと、隣で腕を擦っている黒髪の青年がいた。
「桐ヶ谷君……?」
「あ……おはよう」
 苦笑しながら肌寒そうに腕を擦る彼の格好はどう見ても薄着だ。先ほど視界に入った黒いものと和人を交互に見て、自分の肩にかけられているものがようやく彼のものだとわかった。
「どうしてここに……?」
「俺、ここに少しだけ昼寝しに来たんだ。やっと涼しくなってきたし。でも先客がいてさ、薄着で風邪ひいたら、た、大変だよなーって思ってそれ掛けたんだ。……ち、ちゃんとクリーニングには出してますよ……?」
 きっと気温のせいだけではないのだろう。いくらキャンパス内とはいえ、全く危険がないわけではない。物取りだって時々あるし、寝ている間に男性に何かされても力の差で抵抗することは難しい。つい最近も、このベンチではないが南側のベンチで盗難事件があったばかりだった。多分、防犯も兼ねてここにいてくれたのかもしれない。もっとも、ただの自惚れに過ぎないのだが。
「そっか……ありがとう。でも君が風邪引いたら意味ないと思うんですけど?」
「いや、俺は大丈夫……はっくしょん!」
「もう!」
 最初よりも大きなくしゃみをする和人へ上着を無理やり返し、早く着るように言って押し付ける。先ほどまで肩にあった温かさがなくなってしまい明日奈は少し寂しくも思ったが、彼が風邪をひくよりましだ。
 膝の上の本を閉じ、鞄へしまうと明日奈はスッと立ち上がった。まだベンチに座る黒い人物は決まりが悪そうにそっぽを向き頬を掻いている。
「これ以上遅くなる前に帰りましょ。もうすぐ七時になるわ」
「え、もうそんな時間なのか!?」
 和人が突然顔を上げ、黒い瞳を驚きに見開いた。こんなに彼の感情が表に出ているところを見るのは初めてかもしれない。明日奈もとっさのことにビクッと身体を震わせ、念のため腕時計をちらりと見てからこくこくと頷いた。
「あー……急いで帰って《ALO》にログインしないと……」
「エー、エルオー……?」
「ああ、《アルヴヘイム・オンライン》っていうVRMMORPGがあるんだ。今日ちょっとそこでやることがあってさ」
「ふうん……」
 VRMMOという単語は、ゲームをやったことのない明日奈も耳にしたことがあった。というのも、父親の結城彰三がCEOを勤める総合電子機器メーカーのレクトで製作しているものが、まさにその仮想世界へ旅立つためのハードウェア――《アミュスフィア》であるからだ。
 明日奈も数年前に発売されてすぐ、父が試供品だと持ち帰ってきたアミュスフィアをもらってはいたが、今まで使うこともなくお荷物になっていた。
 そんなに急ぎでALOというゲームにどんな用があるのだろうか。
 人の用事なんて気にする必要もないはずなのだが、明日奈にとって未知の世界での《用事》がとても気になった。それが目の前の男のせいなのか、ただ単にVRの世界が気になっただけなのか、この時の明日奈にはわからなかった。
「ね、そのゲームってすぐにできるの?」
「えっと、アミュスフィアってハードとALOのソフトがあれば……」
「じゃあ、わたしもソフトを買って来るわ。君の用事がどんなのか気になるし、わたしもVRのゲームやってみたい」
「うぇ!? い、いいけど、その……ゲームの経験はおありで?」
「いいえ。だから、君がレクチャーしてね? 明日は土曜日なんだし、少しくらい遅くなっても問題ないわ」
「ええええええ!?」
 何を突然言い出すんだと驚愕する和人が面白く、明日奈の口元からは思わずくすりと笑みが溢れる。そうと決まれば早くソフトが売っている店に行かなくては、と半ば引きずるように和人へショップを案内させた。

***

 玄関の鍵を閉めることすらもどかしく、転がり込むように短い廊下を進み、その先にある居間兼寝室を目指す。
 俺は先ほどまで美人な先輩に半ば無理やりソフトが売っているショップへ案内させられ、今日からやり始めるから中に入ったらレクチャーしてくれと再三念を押され、今ようやく家に帰ってきたところだった。
 今日中に、どうしてもALOでやっておきたいことがあった。だから早く帰ってログインして……と思っていたのだが、ついお節介をしてしまい、今はもう二十時になろうという時間だ。
 部屋着に着替えアミュスフィアを装着すると、焦りから噛みそうになりつつ「リンクスタート」の音声コマンドを口にした。

 降り立ったのは、先週最後にログアウトで使った、ALOのシンボルとも言える《世界樹》の樹上にある都市《イグドラシル・シティ》の宿屋だ。
 久しぶりに感じる仮想世界の空気を大きく吸うと、ベッドから跳ね起きる。そのままの勢いで宿屋からも出ると、三日月湾が象徴の《水妖精族(ウンディーネ)》領へ飛んだ。
 ALOというゲームは妖精を題材としていて、何と言っても売りは《飛べる》ということ。現実世界では自力で人が飛ぶなんてことはできない。けれど仮想世界であるALOは《フライト・エンジン》というものを搭載していて、背中に生える妖精の翅を使えば自力で飛ぶことができる。補助コントローラーもあるのだが、慣れれば《随意飛行》という高等テクニック――つまりコントローラーなしでも飛ぶことが可能だ。
 俺も始めてすぐの頃はなかなか慣れなかったが、始めて二時間もする頃には随意飛行もマスターした。というのも、俺より先にサービス開始初日から遊んでいた妹の桐ヶ谷直葉――ここでの名はリーファ――が、あれやこれやとレクチャーしてくれたおかげではあるのだが。
 このゲームの元となったのは《ソードアート・オンライン》という、剣一つで百層にも及ぶ鋼鉄の城――《アインクラッド》の頂上を目指すMMOゲームだったわけだが、そこでは飛ぶという行為はできなかった。さらにそこから様々なアップデートを重ね今の状態になっているのだが、どんどんスケールアップしてく様は古参プレイヤーの俺にとってこれ以上にないほどワクワクした。
 そんなALOは一見ただのファンタジー系ゲームに思われがちだが、レベルというものは一切存在せず、スキルの熟練度とプレイヤーの身体能力で強さが決まるため、ゲームとしてはかなりハードな部類。さらに九つの種族間同士の争いもテーマとして組み込まれ、《PK推奨》というVRMMO初心者にはとてもハードルの高いゲームだ。
 けれど結城先輩は何がなんでもやるのだと全く聞かず、『ウンディーネって種族にするから、迎えに来て欲しい』とまで言われ、今こうしてウンディーネ領へと向かっている。おそらくウンディーネ領へ行くのはこれが最初で最後になるだろう。
 基本的には、自分の種族の領地、または中立域以外の場所へ行くことはない。もちろん行ってはいけないなんてルールはないのだが、種族間同士の争いというものが存在するように、他種族の領地に行っても、自分は相手を攻撃することはできないが、相手は自分を攻撃することが可能なのだ。もちろんそこでHPがゼロになればその場から消滅――《リメインライト》と呼ばれる炎だけがしばらくその場に残り、やがてそれも消える。そして死に戻りした時にはデスペナルティによってアイテムが減っていたり熟練度が下がってしまっていたりする。だからそんな危険な場にのこのこと出向く輩は圧倒的に少ない。
 だからこそ、俺は今こうしてウンディーネのプレイヤーたちにジロジロと見られている。ウンディーネは水色や青といった明るい髪色が多いため、俺のような黒髪スプリガンはただでさえ目立つのだ。
 居心地の悪い雰囲気に、もう待たずに逃げてしまおうかと考えていると、見覚えのある顔のウンディーネがこちらへ向かってきた。
 白に近い水色の長髪、エルフを彷彿とさせる長めの耳、白と青の初期装備。そして現実世界と同じくらい白い肌に薄らとピンク色の差す顔は、実際よりも幼く見えるが現実の彼女そのものの顔に近い。
「えっと……桐ヶ谷、君……?」
 恐る恐る発せられた声はやはり現実の彼女のものとは若干違っているが、透き通ったソプラノは心地よかった。
「です。でも、ここでの名前は《キリト》なんで、間違っても《向こう》の名前で呼ばないように」
「キリト……君?」
「えっと、君、は付けなくてもいいけど……」
「うーん……キリト……? ……やっぱり何も付けないのは気持ち悪いから《キリト君》って呼ばせてもらうわ」
 先輩の名前は? と訊こうとしたが、それより先に先輩の声が続いた。
「わたし、よくわからなくて《アスナ》って登録しちゃったの。アバターの顔は、君が見つけやすいかと思って現実の顔に似せたんだけど……本名にしたのってまずかったかしら……」
「俺が今までやってきたゲームで本名をキャラネームにする人は君が初めてだなぁ……。まあ、言わなければばれないだろうからあんまり気にしない方がいいと思うぞ」
「そっか……うん、そうだね。ところで、キリト君は名前どうやって決めたの?」
「俺もそんなに凝ってないよ。本名の最初と最後を繋げた単純なやつだし。凝った名前だと、《薄塩たらこ》っていうのとか、《スーパーヒーロー》っていうのとかは見たことあるぞ」
「……それって、凝ってるのかしら……」
 先輩――アスナの呟きには特に答えず、一つ咳払いをして話を切り替える。
「と、とりあえず、先に俺の用を済ませてもいいか? レクチャーはそれからってことで」
 アスナが頷いたことを確認し、俺は「ちょっと失敬」と浅黒い俺の手とは対照的な白い手を掴む。そのまま背中の翅を広げ、ぐっと構えてから紺色に染まり始めた空を目掛けて一気に上昇した。
 空気が耳元でビューっとうるさく鳴く中に、ソプラノな悲鳴が混ざった。
「え、ちょ、ちょっと……きゃああああああぁぁぁぁ‼」

to be continued
2017/08/26 初出