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俺はここ最近で一番落ち着かない週末を過ごしている。いや、原因はわかりきっているのだが、一回だけなら……と引き受けてしまったためどうすることもできない。
遡ること二日前。あれだけ関わるまいと思って極力避けるつもりでいたキャンパスの有名人、結城明日奈とスーパーでばったり出会ってしまうというとんでもない運の悪さを発揮した。いや、他の生徒からしてみればものすごく幸運なことなのかもしれない。
人眼も気になったため彼女とスーパーの外へ一旦脱出し、何の用があるんだと問いただせば、『お礼がしたかった』と言う。お礼なんてされることをした覚えがない俺が首を傾げると、彼女が付け加えるように言葉を続けた。
「この前、わたしが忘れた本を渡してくれたでしょ? それに、その前にもハンカチを拾ってくれたし……」
本のことは確かに覚えているが、ハンカチについては記憶にない。――いや、前にどこかで拾ったような気もする……相手が眼の前の彼女だったかまでは覚えていないが。それに本だって、偶然あそこに俺がいたからであって直接届けに行ったわけではない。だから感謝されるほど何かしたとは思っていないのだが、どうやら本人は違うらしく、そのことを伝えると首を横に振るだけだった。
「わたし本当に嬉しかったの。あの本、とても大切なものだから……」
大切にしているのであろうことは本の状態を見ても解ったが、俺が思っていた以上に大切なものらしい。結城明日奈は切なげにヘイゼルの瞳を一瞬揺らした。しかしすぐに元の明るい表情に戻ると、にこりと笑う。
「だから、お礼させてください。ただの自己満足なのは解ってるんです。でも、何もしないのも気が済まなくて……」
俺も男だ。こんな美人――おそらくキャンパス内で五本の指に入る――に懇願されてしまえば、断るにも断りづらい。たっぷり十秒ほど腕を組みながら考え、「一回だけなら」とそのお願いを受け入れることにした。
「ありがとう……!」
そう言った彼女の笑顔は、あの夕焼けとともに見た時と変わらず綺麗だった。
「お待たせしました。ご飯できたので、これ運んでもらってもいいですか?」
「は、はい……」
なぜか《彼女の家でご飯をご馳走になる》ことがお礼の内容となり、俺は先輩、しかも女性の家に上がっている。もちろんこれまで先輩の家に上がることはおろか、女性の自宅に上がったこともなく、おそらくこれが人生の最初で最後になるのではないかという体験中だ。
彼女の自宅は俺の家からそう遠くはなかった。徒歩十分ほどで到着したのだが、到着してから本当にここに住んでいるのかという疑いが湧き、すぐに建物を見上げた。令嬢だという話は聞いていたが、実際に建物を見た時は驚きが隠せなかった。
まずはその高さ。地上四十階、地下二階建て高層マンションの存在感は見る者が忘れることはないであろうもので、俺もその一人に加わった。地下は駐車場となっているようで、俺がマンションを見上げている間にも数台の車――どれも高級車ばかり――が出入りしていた。
言われた三十六階の部屋で彼女に出迎えられるも、やはり緊張感が抜けることはなく、案内された部屋でさらに高まるばかり。おそらく原因は部屋の雰囲気にもあるのだろう。リビングだけでも八畳ほどの広さがあり、全体的に明るい木目の家具でまとまっていて柔らかい――いかにも女性らしい空気が漂っている。シンプルながらも華やかさがある部屋からは、彼女のセンスの良さが窺える。全て揃えるだけでも一の後ろにゼロがいくつ付くんだろう……と恐ろしい想像をしたところで思考をシャットアウトさせた。
それにしても、いくら昼間だからとはいえ男を簡単に自宅へ上げるのはどうなのだろう。そもそも俺のことを男として見ていないのだろうか……。女顔だとはよく言われるが、異性として見られていないことになぜか溜息が出そうになった。
俺がまだ料理に手をつけずに固まっていたからだろうか。家主はキッチンから出てくると首を傾げて不思議そうな眼をした。
「どうかしたんですか?」
「い、いや! なんでもない……です……。というか、敬語やめません? 歳上の人に敬語使われるのもなんだかむず痒いというか……」
「そう……? じゃあ、お言葉に甘えて。桐ヶ谷君も、無理して敬語使わなくてもいいんだよ? 慣れてないでしょ? 時々噛みそうになってるもの」
くすくすと笑う彼女に何もかも見透かされているようで、羞恥心が込み上げる。こういうときにどうしていいのかわからず、俺はただ視線を逸らした。
「さ、冷めないうちに食べましょ」
横目に時計を見れば、もうお昼の時間を二十分もオーバーしている。そして時間を意識した瞬間、緊張で忘れていた空腹感が思い出したかのように襲ってきたので、俺も彼女の意見に同意することにする。
「い、いただきます」
「はい、召し上がれ」
二人掛けのダイニングテーブルに並べられたのは、シーザーサラダ、コンソメスープ、ビーフシチュー。普段質素な食事ばかりなため、俺からしてみればとても豪華な食事ばかりだ。
シチューの茶色い液体を掬えば、食欲をそそられる香りが更に漂う。そのまま一口、ぱくり。
「…………」
口にスプーンを咥えたまま固まった。向かいに座る先輩もそんな俺に気付き、不安そうな視線を送ってくる。
「ど、どうした……」
「うまい」
彼女の言葉を遮って飛び出した一言がそれだった。いや、それ以上にどう感想を言えばいいのだろう。人間本当にうまいものを食べると「うまい」以外に言葉が出てこないんだなあ、なんて考えている間も、俺はうまいうまいと並べられた料理たちに夢中になった。
食べながらちらりと前を見ると、嬉しそうにはにかみながら箸……ではなくスプーンを進めていた。
***
なぜよく知らない人――しかも男性を自宅に誘ってしまったのかと、あの日の夜に家に帰ってから明日奈は頭を抱えた。翌日里香に報告を兼ねて伝えるも、呆れた顔と共に「あんたがそんな簡単に男を家に誘うなんて、頭でも打ったの?」と言われてしまう始末だ。
里香の言うとおり、明日奈は男に興味がない。――というより、興味がない〝フリ〟をしている。
高校三年生のとき、婚約者だと親から紹介された男性がいた。一見人当たりがよく、勤勉で、聡明であるように見えた。しかし明日奈と二人きりになった途端、百八十度態度を変えたのだ。とても計算高く、眼鏡の下ではその細い眼をギラつかせ、欲しいものは全て手に入れようとどんな手段でも取ろうとする男だった。結局、後でそのことが両親の耳にも入り、婚約は破棄された。もっとも、その後は結城本家からお見合いの話ばかりされ明日奈はうんざりしたものだが。
その頃からだろうか。異性に対して不信感が強まり、極力男性との接触は避けてきた。けれど、今眼の前でビーフシチューを美味しそうに頬張る彼は別だった。男性らしさが少々欠ける外見(本人には失礼だが)のせいなのか、飄々とした態度のせいなのか。理由は明日奈自身もよくわからなかったが、スーパーで鉢合わせ、その後少ない会話を交わす間に、自分が自然でいられることに気付いた。彼にお礼がしたいと伝えれば少々困ったような顔をしていたが、すぐに承諾してくれた。
昼間に外で、しかも彼と二人きりで食事となると、やはり誰かに見られてまた変な噂が広がってしまうことも考えられたので結果明日奈の家で食事を共にすることになった。自分で誘っておきながら、大胆なことをしてしまったなあ、とも思う。けれど後悔はみじんもなく、むしろこの状況が楽しいとさえ明日奈は思えてきた。
――ふと、黒い瞳と眼がかちりと合った。何度か瞬きをしてから、和人は不思議そうな声で言う。
「……俺の顔に何かついてるのか?」
「えっ?」
「いや、さっきからじーっと見てる気がしたから……」
どうやら考え事をしながらじっと彼を見ていたらしい。明日奈は慌てて頭を振った。
「あ、ううん! 違うの! よ、よく食べるんだなあ……と思って」
「まあ、育ち盛り……はそろそろ終盤だろうけど、昔からよく食べるんだ」
「ふふっ、健康男児、って感じだね。見た目はすごく細いのに」
「うっ……一応、それ気にしてるんだけどなあ……」
これでもジムには時々通ってるんだ、と胸を張る和人がおかしくて、明日奈は声を上げて笑った。家での食事中にこんなに笑ったのは、いつ以来だろうか。
実家には大きなダイニングテーブルがあったが、家族全員で使ったのは小学生の頃が最後だった。大学の教授をしている母親、会社のCEOを勤める父親、海外赴任中の兄。皆せわしなく働いていて、家でも顔を合わせることは少なかった。だから食事は明日奈一人で済ませることばかりで、学校の友人たちが家族と食事に行った、旅行に行った、という話をするたびに羨ましくて仕方なかった。《結城》という家のしがらみに縛られるのは嫌だが、家族との時間がなくなることを望んだわけではない。
何年ぶりになるのだろうという、自宅で誰かと食事を共にする行為。とても温かくて、毎日こうであれば――なんて思ってしまった。お礼をするつもりが、逆に彼から色々もらってしまったような気分だ。
「今日はありがとう。来てくれて」
「いや、それはこっちのセリフだ。あんなにうまい料理を食べたのは久しぶりだよ」
「お口に合ったようで何よりだわ」
――良かったら、また来ても…………。
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、思考をリセットさせるように頭を振る。きっと舞い上がっていただけなのだ。本来、ほぼ初対面の人を家に招いて食事を摂るなんておかしいのだから。
「じゃあ……」
「うん。じゃあ……」
それだけの言葉を交わすと、彼は部屋を出た。「さよなら」とも「またね」とも言えない、フクザツな関係。けれど今日だけの関係。だから学校でもし会うことがあっても、もう言葉を交わすことはないのだろう。そのことがなぜか少し寂しくもあるが、本来こういった形で時間を共有することなんてなかったはずなのだ。それがもとの形に戻るだけ。
それに、三年生になれば明日奈はキャンパスも移るし、再び本家から婚約の話が出てくるに違いない。これ以上、反発することもできないだろう。
和人の背中が見えなくなったことを確認してから、明日奈は玄関のチェーンロックをガチャリと掛けた。
to be continued
2017/07/10 初出