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「おい、桐ヶ谷。この前《ユウキ先輩》と一緒にいたんだって?」
 果たしてそんな知り合いがいただろうか? と俺は首を傾げた。
 そんな俺の様子を汲み取ったらしい森が、やや声を張る。
「だから、結城先輩だって! 先週、中庭で見かけたって須藤が言ってたぞ」
《先週》、《中庭》、というキーワードから、俺の乏しい記憶の箱を開け、ようやく思い出した。あの本の持ち主のことらしい。
 しかし、一緒にいたと言っても彼女は忘れ物を取りに来ただけだし、俺はたまたまそこで寝ていただけだ。
「……あれは、一緒にいたとは言わないだろ。偶然だよ。というか、何でそんなこと訊かれなきゃならないんだ?」
 森は、信じられないとばかりに頭を抱えた。そして両手で俺の肩を捉え、やや早口で迫った。
「あの結城さんだぞ!! 知らないのか、お前!? 経済学部二年の《結城明日奈》といえば、キャンパス内に知らない人間はいないぞ!?」
「は、はあ……」
 生返事な俺に対し、森は畳み掛けるようにして結城明日奈という人物の説明をし始めた。
 結城明日奈という経済学部の二年生は、あの総合電子機器メーカー《レクト》のご令嬢らしい。成績優秀、容姿端麗。いわゆる、《高嶺の花》、というやつだそうだ。
 大学も成績トップで入学を果たし、現在もトップの座は誰にも譲っていないそう。だが――
「彼女、全然男に眼もくれないんだよなあ……。まあ、そこも魅力的というか、一度くらい冷たくあしらわれてみたいというか……」
 などと鳥肌が立つようなことを言い出したので、「もういい! 解かったら!」と話を止めた。
「で、そんな彼女だからどこにいようが目立つわけで、当然そこに一緒にいれば、そいつも目立つってことだ」
「ふうん……」
「ふうん、って、彼女に興味ないのか?」
「ないな」
 言いながら、俺はカフェテリアの日替わりランチAセットに乗った、いかにも業務用冷凍なエビフライを頬張る。……期待を裏切ることなく、やはり身がほとんどない。
 約三十秒でエビフライの租借を終えると、水で胃へと流し込んだ。
「……だいたい、女は苦手なんだ」
「え、お前、そっちの気があったのか……確かに女顔だいでッ! ちょ、肘鉄すんなよー!」
「ウルサイ。お前が余計なこと言おうとしたんだろ。ついでに言うと、俺はそっちの気もないからな」
 高校生のときも同級生たちはこんな会話をしていたが、まさか大学生になってもすることになるとは思わなかった。いや、もしかすると、いつになってもこれだけは変わらないのかもしれない。
 面白くなさそうに、隣に座る森もAセットのエビフライを口へ押し込んだ。無論、あっという間に胃へと運ばれていった。
 キャンパス内の有名人と噂になっているのは、極力目立ちたくない俺からしてみれば迷惑な話だ。噂がエビフライのように早く消えてなくなってしまうことを願いながら、俺は二本目のエビフライへと箸を伸ばした。

***

 まだ読みかけの本にしおりをはさみ、図書館の大きな窓から外を見る。
 先週、この本を渡されたときも今のように空が真っ赤に燃えていた。
 忘れた本を渡してくれた青年は、三月の下旬、学校の図書館から自宅へ向かっている最中に、ハンカチを拾ってくれた青年と同一人物だった。同い年くらいだろうと予想はしていたが、まさか同じキャンパスに通う大学生だとは思わなかったので正直驚いた。
 青年の名前は、まだ知らない。
 本を渡すとき、青年は特に動じる様子もなく、ただ不思議そうな顔でこちらを見ていただけだった。あの様子では、きっと以前にも明日奈が助けてもらったことを覚えていないのだろう。
 二度も助けられてしまったが、まだ何もお礼ができていない。先週も、「ありがとう」とは言ったが、それ以上は会話もなく、青年はそそくさとどこかへ消えてしまった。
 男性に対していい印象を持ったことはないが、二度も助けられて何もしないというのも明日奈のプライドが許さない。
「誰……なんだろう……」
「何が誰だって?」
 張りのある女性の声だった。
 はっと顔を上げると、見慣れた茶髪の学友がいた。
「里香、いつのまに来てたの?」
「つい五分前よ。ぼーっと外見てると思ったら、『誰なんだろう』とか言ってるからさ」
 茶髪の親友――篠崎里香は、明日奈の向かいの椅子へ腰を下ろすと、頬杖をついてぐいっと顔を寄せた。
「で? 誰のことが気になってるのかな? このお嬢さんは」
「もう、言い方がおじさんくさいよー」
「あはは。で、それよりさっきの話だけど、何かあったの?」
 里香は好奇心を含んだ笑みで問いかけてくる。
 それまであったことや、お礼ができればしたいことを話すと、里香は関心したように息を吐いた。
「へぇ~、いまどき親切な奴もいるもんねぇ。あ、もしかしてこの前から噂になってるやつ? 明日奈はその彼が気になって仕方ないのかあ」
「な、なんでそうなるのよ! 違うってば!」
 明日奈が思わず声を張り上げると、図書館のカウンターから大袈裟な咳払いが聞こえた。司書の先生だろう。
 慌てて口を噤み、里香をじっと見た。
「……もう。それより、噂になってるってどういうこと?」
「先週、中庭で明日奈が男子生徒に笑いかけてたって噂。あんたが男に笑いかけるなんてほほゼロだから、実は意中の相手なんじゃないかって、そこら中で噂になってるわよ?」
「なっ……なんでそうなるのよう……。わたし、本が戻ってきたから嬉しかっただけなのに……」
 知らないところでまさかそんな話になっているとは思わなかった。色恋沙汰に敏感な年頃なら仕方ないのかもしれないが、いざ自分が渦中となるといい気はしない。
 不本意だ、と明日奈が口を尖らせると、里香は苦笑した。
「ま、まあ、人の噂も七十五日とか言うし、そんなものは気にしない気にしない。んで、どうするの? お礼したいんでしょ? 名前も学部も分からないけど、噂になってるうちなら探しやすいと思うし、調べられるだけ調べようか?」
 また二人で会えば、変に噂になってしまうかもしれない。しかしお礼しないというのはやはり明日奈の気が済まなかった。
 誰にも見られないようなところ、もしくは里香と同伴であれば……。
 明日奈はしばらく考えあぐねたが、やがて決心したように里香を真っ直ぐ見て頷いた。

to be continued
2017/06/17 初出