「あの……」
突然、後ろから声を掛けられた。
初めてのことに、思わず歩いていた足を止め、ビクビクしながら後ろを振り返ろうとして、静止。
まさか不審者だろうか……? それなら今すぐに足を動かして逃げるべきだ。と、再び足を動かそうとしたとき、
「あの、これ、落としましたよ!」
再び、同じ声。
仕方なく、警戒しながらもゆっくり振り向くと、黒髪に黒いジーンズ、黒いジャケットを羽織った同い年くらいにも見える青年が立っていた。その手には、青年とは対照的な明日奈の白いハンカチ。どうやら鞄から落ちてしまっていたらしい。
警戒を緩めずに近づき、ハンカチを手に取った。
「あ、ありがとうございます」
「い、いえ……」
青年は決まりが悪そうに頬を掻くと、視線も合わせることも、それ以上何も言うこともなく、明日奈と反対方向へ去って行った。
1
結城明日奈は、某有名私立大学に名を連ねる二年生。現在住居として構えるマンションも、昨年の大学入学前に引っ越してきた。
《結城》という家は、古くから続く京都の名家だ。時代と共に発展し続け、今では父がCEOを勤める総合電子機器メーカー《レクト》という会社だけではなく、不動産、銀行、外資など、様々な分野でその名を轟かせた。
明日奈がこの高級マンションに住んでいるのは、その結城家所有のマンションで家賃もかからず、さらにセキュリティまで万全なためだった。しかし、正直なところ、明日奈はこの結城家所有のマンションに住むのは不本意だった。
これまで、両親――特に母親の期待に応えるために必死に勉強もしてきたし、習い事もこなし言いつけも守ってきた。幼い頃は、それが正しい道なのだと信じて疑うこともなかったが、徐々に窮屈さが増していった。
中学二年生くらいになると、言われた通りの成績を取っても、「もっと上を目指せるでしょう」「次の模試は全国五位以内を目指しなさい」「次のテストは全教科学年一位を狙いなさい」と、次々に高い目標が課せられるだけで、褒められることもなくなってしまった。
高校生になり、親の期待に加えて、京都にある結城本家からの期待も高まった。更にお見合いまでさせられるようになり、どこの誰かもわからない相手と二人きりにさせられて……なんてことも多々あった。結婚も明日奈の意思など関係なく、家の都合でさせられるのかと思い一人涙したことは、両手では数えきれない。
幸い、難関大学への進学を口実に結婚の話はなくなったが、多分、大学三年生――つまり来年あたりからは、また本家からお見合い相手の紹介が始まるのだろう。卒業と同時に籍を入れればいい、とでも言ってきそうだ。
明日奈が今の大学を選んだのは、いくつか理由があった。
まず、親が納得する偏差値の大学であること。それから実家からは通いづらい距離であること。
窮屈な家から抜け出し、一人で自由に生活して、好きな勉強をしたいと思った。それまで趣味も勉強の邪魔になるからと言われ、隠れてこそこそとやっていた。だが、これからは堂々とそれができるのだ。
本当なら結城家所有マンションではなく、一般的なアパートで生活したかったのだが、一人暮らしの条件として、大学の日吉キャンパスから徒歩五分の立地にあるこのマンションに住むことが提示されてしまっては、大人しく従うしかなかった。それでも、これまで家にいた時よりも何倍も自由で、両親が納得する成績さえ取っていれば、明日奈に連絡をすることはほとんどない。今までが窮屈だった分、これからはもっと好きなことをしようと心に決めた。
明日奈は読んでいた本を閉じると、両手を思い切り上に伸ばした。縮こまっていた身体中に血液が流れ始めるのを感じ、息を吐いた。
桜の花はすっかり散ってしまい、木の九割を青々とした葉が占めている。上から差す木漏れ日が心地よく、少し気を緩めれば夢の中に誘われそうだった。こんな天気の日はよくキャンパスのベンチに座り一人で本を読むことが明日奈の習慣だ。図書館ももちろんあるが、晴れた日にはやはり外の空気がおいしい。
腕時計を見れば、あと十五分ほどで次の講義が始まる時間だった。今日はこのコマを終えれば帰れる。帰りに本屋にでも寄ろうかと思い立ち上がる。再び体をぐっと伸ばし、校舎へと歩を進めた。
***
「あれ……」
桐ヶ谷和人がキャンパス内のとあるベンチで昼寝でもしようかと近づくと、先客がいた。いや、先客が忘れたらしい《忘れ物》があった、というのが正しいか。
それを手に取ってみると、どうやら本らしい。丁寧に布でできたブックカバーまでかけられている。どこかに名前でも書いてないかと本を開いてみるも、どこにもそれらしいものは見当たらなかった。
その代わり――
「うへえ……」
《不思議の国のアリス》と書かれたタイトルに、思わずそんな声を上げた。しかも本文は全て英語だった。とんだ物好きもいるんだなあと本を閉じる。
和人は本が嫌いなわけではないが、こういった物語を読むよりは実用書や電子工学やプログラムに関する専門書ばかりを好んだ。英語ばかりの本なんて、それこそ読もうなんて思わなかった。
よく、プログラムを書くなら英語もできるんじゃないかと言われるが、プログラミング言語で使う英語と会話で使う英語は全く別物だ。
本はあったが、人はいない。
本は後で事務室へ届けるとして、今はとりあえず昼寝しようと思い、本を鞄へ仕舞いベンチへ仰向けになった。木漏れ日は暖かく、時折吹く風も心地よかった。
二〇二二年、日本初のVRフルダイブ機器、《ナーヴギア》が発売された。現実世界での五感を全てカットアウトし、VRの中で実際に体を動かし、音、匂い、触覚などを感じ取れるという新しい技術は、瞬く間に全国へ人気を広げた。
その後も二〇二三年に《アミュスフィア》というナーヴギアの後継機が発売されたり、《メディキュボイド》という医療用フルダイブマシンまで生まれた。
コンピュータやゲームに興味のあった和人は、その世界にあっという間に魅了された。特に初めて被ったナーヴギアでプレイしたVRMMORPG《ソードアート・オンライン》は、仮想世界でありながらあまりに現実に近いグラフィックや感覚に衝撃を受けたのは今でも鮮明に覚えている。
残念ながら今SAOはバージョンアップとアップグレードを繰り返し、《アルヴヘイム・オンライン》という新たなゲームへと生まれ変わってしまった。
しかしALOでは、SAOになかった《フライトエンジン》というモジュールを搭載していて、自由に空を飛びまわることができる。加えて、剣だけで《浮遊城アインクラッド》を登るSAOに対し、ALOには《魔法》も存在した。
またそれはそれで大変魅力的で、和人が夢中になるのも時間の問題だった。SAOの象徴であった《浮遊城アインクラッド》が、ALOにも存在する、というのも一つの理由ではあるが。
そういったVRに関するインターフェイス、またはそれに取って変わるような新たな機器について研究をしたいがために、和人は電子工学を学んでいる。この学校に入学したのも、そういった分野が学べ、チャンスがあれば留学もできるかもしれないからだった。
実家は埼玉県川越市にあり、神奈川にキャンパスを構えるこの学部まで電車通学はとてもきつい。そのため、現在はこのキャンパス近くの安アパートで一人暮らしをしている。
安アパートなのでそれなりに築年数は経っているが、八畳一Kの広さは、一人暮らしをするには十分だった。実家からの仕送りも多少はあるが、バイトでそれなりの稼ぎはあるので不便はない。
人の気配を感じて眼を開くと、木の葉の間からは真っ赤な空が覗いていた。昼寝、というよりガチ寝に近かったらしい。欠伸をしてから起き上がり、ぐっと腕を伸ばした。
「ん……?」
ぼんやりしていた視界が徐々にクリアになっていくと、ベンチから一メートルほど離れたところに一人の女性が立っていた。じっとこちらを見ている。
初めて見る顔ではなかったような気がする。しかしどこで見ただろうか――と和人が考えていると、
「……本、知りませんか?」
透き通った声が耳に届いた。
「本?」
和人が繰り返すように口にすれば、女性は小さく頷いた。
長い髪は夕陽に照らされ、金色のようにも見える。風に流れるその様は、女神のようでもあった。
本とは? と一瞬思ったが、ここに来て最初にそれが置かれていたのを思い出した。
近くに置いてあった鞄から忘れ物を取り出すと、女性がすぐ近くまで寄ってきた。
「これのこと?」
差し出すと、女性の表情は花が咲いたように明るくなり、両手で大事そうに本を受け取ると、胸の前でぎゅっと抱きかかえた。それから和人の顔を真っ直ぐに見つめ、少し驚いた表情になったかと思うと、にこりと笑った。
「ありがとう。大事な本なの。戻ってきて良かった……」
他人に興味もない和人が魅入ってしまうくらいには、女性の笑顔は綺麗だった。
to be continued
2017/05/27 初出