扉の前で立ち止まる。もう大丈夫だと、そこに彼女がいるのだと分かっていても祈ってしまう自分がいた。
――どうか、彼女が目覚めていますように。
眼を閉じ祈るように胸の奥で呟くと、《結城明日奈》と書かれたプレートに走るスリットにカードキーを滑らせ、ゆっくりと扉を開けた。
更にその奥にある薄いカーテンの端を掴み、「入るぞ」と一言だけ告げる。すると、昨日まではなかった「どうぞ」という応答。
胸に広がるなんとも言えない感情を堪えながら、ゆっくりとカーテンを開けた。
昨日までベッドに横たわるだけだった明日奈は、今はベッドの上で枕を背もたれにしながら上体を起こしていた。大きな窓から射し込む陽光によって、栗色の髪がキラキラと輝いて見える。いや、本当に輝いているのかもしれない。
「こんにちは、キリトくん」
アインクラッドにいた頃と変わらない、ほわんほわんとした笑顔に、不安が胸中に渦巻いていた俺の頬も緩んだ。
「よっ、明日奈」
短い挨拶を交わし、俺はベッドの近くにあるいつもの椅子へ腰を下ろす。布団の上にある白く細い手を両手で取り、包み込むように握った。
「具合、どうだ?」
「うん。昨日の夜より、キリトくんの声が聞こえるよ。まだ、ご飯とかは食べられてないけど」
「そっか……」
昨夜、明日奈はようやく《ナーヴギア》という茨の冠から解放された。途中で一波乱あったが、夜に明日奈の病室へ駆けつけると、今のようにベッドに座る明日奈の姿があった。月光に照らされるその姿は儚く、触れれば光の粒となって消えてしまいそうだった。
けれど、恐る恐る触れれば離すことなどできなくて、看護師が慌てて病室に入ってくるまで明日奈と抱擁を交わした。
まだ目覚めたばかりの明日奈は身体を起こすことすら大変だろうと思う。少し笑うだけでも腹筋や顔の表情筋が引っ張られ、痛みとなって襲い掛かる。俺が初めの頃がそうだったように。これから体力が戻ってくればリハビリも始まるだろうが、できるのであれば代わってやりたいくらいだ。当然、それでは明日奈の身体が戻らないのだが。
ふと、ベッドサイドにある棚に眼を向けると、今までそこになかった本が一冊置かれていた。
「これね、午前中にお父さんとお母さんが来て置いていったの。退屈だろうからって」
俺の視線の先にあるものに気付き、明日奈が言った。
「ご両親今日も来れたのか、良かった……。ところで、何で置いていった本が〝大学入試の参考書〟なんだ?」
すると明日奈は肩を竦め苦笑。
「多分、勉強の遅れを取り戻せって言いたいんだと思う。お母さんが、ちょっと厳しい人だから……」
《向こう》にいた時、明日奈の母親が厳しい人だということは薄らと聞いたことがあった。だが、目覚めたばかりの十七歳の娘に、高校の勉強用の参考書ではなく、大学入試の参考書を置いていくほど厳しい人だとは思っていなかった。いや、普通は参考書ではなくもっと娯楽的なものを置いていくだろう。
「まあ、まだ無理はするなよ? 昨日目覚めたばかりなんだし、しばらくは検査も多いだろ?」
「うん。午前中にも色々検査受けて、今日の夕方にも受ける予定だよ。……なんだか不思議だよね。昨日まで仮想世界で自由に歩いたりできたのに、今何もできないんだもん」
そう言って、明日奈は不満そうに唇を尖らせた。
俺もそのもどかしい思いは経験済みなので、気持ちは解る。けれど無理をして退院が遅れてもいけないし、明日奈に何かあればそれこそ俺のHPがもたない。
「だんだん動けるようになるさ、明日奈ならきっと。少しずつ頑張ろうぜ。俺も手伝えることがあれば手伝うしさ」
言いながら栗色の髪を梳けば、明日奈は嬉しそうに微笑み頷いた。それから白い頬をほんのり染めると、恥ずかしそうに指をもじもじし出した。
「あの、あのね…………」
もじもじ。
「その……」
もじもじもじ。
「う〜〜……や、やっぱりなんでもない!」
俺は思わず椅子からズルっと滑り落ちそうになった。そこまで言われれば先が気になってしまうのは人間としての本能だろう。なんとか続きが聞けないかと俺は口を開く。
「そこまで言われると、続きが気になって仕方ないんデスガ……」
「だ、だって……」
明日奈はそこまで言うと、今度は俯いてしまった。覗き込むように顔色を窺うが、どうやら怒っているわけではないようだ。
「明日奈……?」
訊ねるように名前を呼べば、おずおずと顔を上げた。ヘイゼルの瞳は、どこか緊張した様子だった。
「……あの、ぎゅって、してほしいなー、なんて…………」
「へ?」
もっと言いづらいことがあるのかと思えば、あまりに単純で、しかし魅力的なお誘いに、俺は思わず情けない声を上げてしまった。
「い、いやなら……」
「あ、や、嫌じゃない! けど、まさかそんなことお願いされるとは思わなくて」
「だって、《こっち》で君に会うのはこれが二回目なんだよ? いくら《向こう》と顔が同じだからって言っても、やっぱり緊張するし、二年経ってるから仮想体(アバター)よりもちょっと大人っぽい気もするし…………」
まだ普段の顔色は青くはないが真っ白なことが多いのに、今はそれを感じさせないほど桜色に染まっている。更に手をもじもじとさせている様子は約二ヶ月前に森の家で見た時と変わらず、俺の心拍数を上昇させた。
俺は身体を堅くしながら椅子から立ち上がり、そっと俯く明日奈に近寄る。ベッドの端に腰を下ろすと、明日奈がはっとしたように顔を上げた。
俺はぎこちない所作で、昨夜もそうしたようにそっと腕を回し抱き寄せた。まだ華奢で、少しでも力を加えたら折れてしまいそうな身体だが、あの頃と変わらない暖かさと、柔らかさがある。明日奈の温もりを感じた途端、病室に入る前に感じた不安は消え去っていた。
最初は布団のシーツを掴んでいた明日奈の手が、そっと俺の背中へ回される。
「……もう、だいじょうぶだよ。わたしは、キリトくんのとろこにいるよ」
言いながら、明日奈は回した手でゆっくりと俺の背中を撫でた。
仮想世界では、アスナの存在が俺を支えてくれた。慰めてくれた。しかし現実世界に於いても、アスナは明日奈だった。だから、これからも俺は明日奈を守りたい。二度と、辛くて悲しいことが彼女に起こらないように。
「ああ……ちゃんと、ここにいる……」
もう明日奈を手離すまいと、少しだけ腕に力がこもる。
長い、長い抱擁は、俺の心を芯からゆっくりと温めていった。
end
2017/06/10 初出