膝を抱えて、前を見る

「もう二週間……」
 思わず零れた言葉に、いやいやと首を振る。音にしてしまったせいで嫌でもその現実を受け入れなければならず、そんな浅はかなことをしてしまった自分に舌打ちをした。
 兄・浩一郎の部屋にあったナーヴギアを、少しだけ……と明日奈/アスナが被ってしまってから約二週間。あと数日も経てば三週間で、きっと一ヶ月なんてあっという間だ。
 それだけの時間があったら、いったいどれだけの参考書と問題集をこなせただろう。学校での授業だって、もう何十時間と置き去りだ。
 けれど、それほどに時間が経とうと未だこの層――アインクラッド第1層はクリアされず、ゲームの外で茅場晶彦が逮捕された気配もない。逮捕されればきっとすぐにでも《ソードアート・オンライン》からログアウトできるだろうに、こうしてゲームの中に居続けているのだから。
 アスナは部屋の扉の前で買ったばかりのフーデッドケープを深く被り、腰に携えた《アイアン・レイピア》の柄を握ると、すぅ……と深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 ゲームが開始されてから今現在に至るまで、アスナはこの宿屋で殆どの時間を過ごしている。
 ログアウト不可能だと知ったとき、最初に浮かんだのは受験のことと、母・京子の顔だった。
 幼い頃から京子に進路や将来の話を厳しくされてきたアスナは、その期待に応えるべく勉学や習い事に励んでいた。忙しない日々を過ごしていたものの、アスナも嫌々やっていたわけではない。新しいことを学ぶのは楽しかったし、習い事だって何度も賞を取ることができて達成感があった。少しでもいい学び舎で質のいい教育を受けることだって当然力になるし、それができる環境にいるのだから尚更そのチャンスを逃してはもったいない。
 ――――そんな気持ちで十数年と築いてきたものが、たったこれだけのこと。〝ゲームからログアウトできない〟という普通なら有り得ない状況によって一瞬で音を立てて崩れていくことが何よりも悔しくて、周りから置いて行かれてしまう現実が怖くて、初めて膝を抱えて塞ぎ込んだ。いったいどうして自分が、こんなことに巻き込まれてしまったのか、何故あの時ナーヴギアを被ってしまったのか、と。
 最初の一週間はこれまで流さなかった筈の涙が何年分も流れ、次の一週間はそれも枯れきって空っぽになった。
 けれどそんな空っぽな状況に、変化が訪れたのはつい昨日の話。

 さすがに誤魔化せなくなった空腹を満たそうと《はじまりの街》のアイテムショップで安い黒パンをいくつか買っていた時、すぐ近くにいた道具屋の店員――おそらくプレイヤー――に無料配布だからと渡された物があった。
 《攻略ガイドブック》と書かれたそれは文庫本くらいの大きさで、開くと各アイテムの値段や効果、フィールドにいるモンスターの名前や弱点、ソードスキルの種類……と、とにかくこの先に進むとき必要になるだろう知識が詰め込まれていた。
 これを使うことがあるのかは解らないが、部屋に戻ってじっくり読んでみよう。そう思って踵を返したその時。
「なぁ、聞いたか? ゲームをクリアしようって連中が、今朝ようやく迷宮区の入り口を見つけたらしいぜ」
「マジかよ!? そんな話聞いてねぇぞ! ガセネタじゃねぇだろうな」
「ちげーって! 俺も詳しいことは知らないけど本当だって! …………多分」
 そんな会話が耳に入り、アスナは思わず足を止めた。
 〝迷宮区〟が何なのかは街で耳にしていたため知っている。この上……第2層を目指すための場所。そこがゴールではなく、先へ進むために通らねばならない試練のようなもの。
 そこへ、先を走るプレイヤー――いわばトップランナーたちが到達したのだという。
 正直、ゲームクリアなど自分には関係のない話だとアスナは思っていた。犯人の名前は解っているのだから、いずれ外から助けが来るはずだと。けれど、そんなものに期待はできないとこの二週間で嫌というほど理解した。
 それならば、宿屋で助けを待とうが、フィールドに出ようが、結局死ぬのなら一緒ではないのか――――。
「……なら、わたしは――――」
 貰ったばかりのガイドブックを持つ手に力が入る。
 今すぐ宿屋に戻ってこれを全て読んで頭に叩き込もう。暗記なら得意分野だ。いつだってそうしてきたのだから。
 心に決めると、アスナは今度こそ足を動かした。ここで腐り果てる前に、必死に足掻いて足掻いて散ってやろう、と。

 そして今日、この街を出る。街を出て、迷宮区を目指し、進めるだけ進んで、誰も知らない場所で消えるのだ。

 ――もっとも、見知らぬソロプレイヤーによってそれが叶わぬことなど、この時のアスナは知る由もなかった。

2021.10.31 初出