ひんやりとした空気を切るように早足で進み階段の踊場に出ると、下りた先にある昇降口に人影が見えた。シルエットだけでそこにいる人物を悟り、明日奈は表情を緩め階段を駆け下りる。
その足音が聞こえたのだろうか。それとも胸の裡で名を呼んだのが聞こえたのだろうか。黒い頭がくるりとこちらを向き、ニッと笑いながら手を上げた。
「お疲れ、明日奈」
「キリトくんもお疲れさま。待たせちゃってごめんね」
「大丈夫だよ。今日もホームルームが長引いたんだろ。あの先生が長引かない日の方が珍しいもんなあ……」
「いつも話が脱線していくのよね……内容は面白いからいいんだけど」
明日奈のクラスの担任は、政治経済や倫理の授業を受け持っている。そのせいではないと思いたいが、授業中や帰りのホームルームで様々な知識を披露し始め話が脱線するのだ。内容はいつも面白く興味深いためこちらもつい聞き入ってしまうのだが、気付くと十分、十五分と時間が経っているため、日直やクラス委員が止めに入ることもしばしば。例によって今日も話が延びに延び、十分ほど経ったところで委員長が止めてくれたのだった。
「遅くなっちゃうから帰ろっか」
「そうだな」
頷き合い、冬の空気に冷やされたローファーを履く。タイツを通して足の裏にそれが伝わり、一瞬だけぶるりと体が震えた。
いつも校門を出てからはどちらからともなく手を伸ばし、ぎゅっと絡めてから最寄り駅までの道を歩くのが習慣になっている。周りには他の生徒もいるためやや照れくささもあるが、寒いから仕方ないのだと無理やり理由を自分の中でこじつけている。暑い季節になったときの言い訳は、きっとそのときに考えるだう。
今日もいつものように手を繋いだのだが、握ったときの感触がいつもと少し違うことに気付いた。首を傾げながら左側を横目に見ると、白い手袋をはめた自分の手と、肌がむき出しの和人の手が見えた。今朝はあったはずの、黒い手袋がない。
「あれ、キリトくん手袋は?」
「教室に置いてきちゃったみたいでさ。明日奈を待ってるときに気付いたんだけど、取りに戻るのも面倒だから今日はいいかなーと……」
「もう! 手冷たくなっちゃうじゃない。明日の朝だって寒いだろうし……」
「へーきへーき。こっちの手はポケットに入れてるから」
言いながら、繋がれていない方の手をひらひらとさせる。片手がいくら温かろうと、もう片方の手が晒されていたらあまり意味がないような気がする。いっそこちらの手も――少し寂しくはあるが――ポケットに入れたらどうだろうか……。
と考えていると、突然くいっと握られた手が引かれた。
「わわっ!」
驚きの声を上げたときには、引かれた手はそのまま和人のコートのポケットへ吸い込まれていた。先ほどよりも、手を包む空気が僅かに暖かくなる。視線を上げれば、方頬を上げいたずらっぽく笑う漆黒の瞳。どきりと心臓が脈打ち、明日奈は自らの頬が熱を持つのを感じた。
――ずるい……。
自分ばかりがいつもドキドキさせられているような気がする。決して嫌ではないが、たまには逆があってもいいのではないだろうか。
明日奈は握られた手の力が一瞬抜けた隙を狙い、ひょいっとポケットから逃れた。和人が目を丸くしている間に、左腕にぎゅっと自らのそれを絡めた。自然、数秒前より距離が縮まる。
「あ、ああ明日奈さん!?」
「……こっちの方が、あったかいでしょ?」
「あー……まあ、そうですケド……」
狼狽える和人にトドメを刺すべく、絡めた腕に更に力を籠め、頬を擦り寄せる。ドクン、と聞こえた音はどちらのものだっただろうか――。
こつり、と和人が頭を僅かに傾け擦り寄せたのを合図に、いつもよりゆったりとした足取りで二人で歩を進めた。
end
2019/01/22 初出