大切で、大切な、

 セントラル・カセドラル三十階。
 その南東の角ある〝俺たち〟の部屋。広すぎる気もするその部屋に置かれた長めのソファに、俺はごろりと仰向けに転がり、ふーっと長い息を吐いた。一時間後に始まる予定の《会議》のことを思うと、更にげんなりとしそうになる。もし今の役割を与えられていなければ、こっそり街へ逃げていたかもしれない。
 UWで《人界統一会議代表剣士》という役目を担うようになってから、もう九年が経とうとしていた。長いようでとても短かった時間で、この世界は大きく変化しようとしている。けれど《変わった》というにはまだまだ未熟で、大小問題が散見される。全てを解決できれば一番いいが、どう足掻いても解決できない問題だって出てくる。
 例えば――――。
「あ、キリトくん戻ってたんだ」
 誰の声かなんて聞き間違えるはずのない、軽やかなソプラノが聞こえ、よく知った柔らかな香りが鼻腔に届く。
 俺は反射的に倒れていた上半身を起こし、労いの言葉をかけるべく、右手を軽く上げた。
「お疲れ、アスナ。もう神聖術の勉強は終わったのか?」
「うん。あと一時間で会議も始まるし、少しお部屋でゆっくりしてから行こうかと思って。……キリトくんは、その《会議》のことで困ってるんだろうけど」
「うぐ…………」
 お見通しだとばかりにくすりと笑うと、ぴょんと跳ねながら俺の隣へ腰を下ろす。そのまま頭をこつりとこちらに預け、ゆっくりと囁いた。
「だいじょうぶだよ、今日はわたしだって会議にいるんだし、バックアップはするんだから。それに、ちゃんと言えばきっとみんな解ってくれる。……でしょ?」
「だと、いいんだけど……」
「もう、肝心なときはいつも自信ないんだから。……でも、キリトくんがこの世界でも大事に考えてくれてたのは嬉しい」
「そりゃ、大事な日……ですし」
「うん……」
 隣の少女が小さく微笑む気配がして、俺も少しだけ肩の力を抜いた。
 ここよりもっともっと遠い時間、場所――。俺たちはそこで《結婚》という名の結び付きを得た。意味など何も持たなかった日が、その日を境に特別な日へと変わった。その世界の消滅と同時に夫婦という関係性も喪失したが、俺たちの気持ちは変わることなくいまも続いている。だからその日が特別だということは常に思い続けていたし、忘れたりすることもなかった。
 もしかしたら、そうすることで鋼鉄の城で過ごしたあの二週間のことをいつまでも胸に刻み続け、現実世界でもいつか同じように……という祈りも込めていたのかもしれない。
 ここでの九年間も、その日だけは少しでも二人きりで過ごせるようにと、忙しい中でもスケジュールを合わせ時間を作った。これで大事に思っていなかったら、それこそおかしな話だ。
 態度でもそれを示すべく、俺は細い腰に腕を回しぐっと引き寄せた。
「ふふ、ありがと。……それにしても、キリトくんが王様かー。なんだか不思議だね」
「それは俺のセリフ。アスナだって王妃になるんだろ。というか、こーゆーのは俺よりアスナの方が向いてそうだよな」
「あら? 昔コンビ組んだときに前衛はお願いしたじゃない」
「え〜〜……もう時効じゃないのか、それ……?」
 頭を抱える俺を見て、アスナはくすくすと肩を揺らした。
 俺たちがいま暮らしているのはUWの中でも《人界》と呼ばれる、その名の通り人――とはいえ俺とアスナ以外は高度なAIだが――が生活を営んでいる広大な土地だ。けれど、《王》と呼ばれるような代表者はいない。忙しかっただとか色々言い訳はあるのだが、その必要がなかったから、というのが理由の最もたるところだろう。
 けれど再び《暗黒界》側と戦争を起こさないためにも、そして大きく変わり始めた世界を導くためにも、《人界統一会議代表剣士》という名の曖昧な権力ではなく、《王》という絶対的な権力が必要なのではないかと一ヶ月ほど前に会議の場で話し合われた。
 俺もそのことには大賛成だった。
 俺とアスナは《代表剣士》《副代表剣士》としていまは役目を果たすべく尽力しているが、いずれこの世界から消えてしまう存在。遅かれ早かれ、この世界で生まれ育った人たちに引っ張って行ってもらう必要があると思ったからだ。
 けれどそんな俺たちの思惑から外れ、会議出席者たちはなぜか俺とアスナにその役割を、と。理由は、この世界のこれからの発展に必要不可欠であること、人々からの信頼が厚いこと、そして《人界》《暗黒界》の両方を平等な視点で見ることができること。
 この世界のため、そして今現実世界にいるアリスのために俺たちができることをして、ここを守りたい。ただそれだけで、そんな大それた役割など……と思っていた。けれど整合騎士たちだけでなく、暗黒界から来ていた全権大使のシェータや暗黒界総司令官のイスカーンたちにまで指名されてしまえば、「嫌だ!!」なんて逃げられるはずもない。「二人で頑張れば大丈夫だよ! 男の子なんだからしっかりしないと!」というアスナの言葉、笑顔がなければ、未だにうなだれていただろう。
 ……俺が、この世界の王に……。
 どう足掻いてもこの展開は避けようがないし、担うからには最期の最後までその責任を果たすまで。
 ……それはいい。いいのだが、《戴冠式》と同時に《婚礼の儀》を行うらしく、それを聞いてすぐに俺は、「日付は十月二十四日にしてほしい」と申し出た。けれどいまはまだ五月下旬。半年近く先の日付を指定したため、さすがにその場ですぐに決定とはならず次回に持ち越しされた。それが前回の会議の話。
 今日この後行われる会議で、おそらく正式に日付が決定されるだろう。いや、しなければならない。前回いなかったアスナと他の整合騎士たちも今回はいるし、この状態が長きにわたるのも精神的に良くない。
 は――――……と重々しく息を吐くと、左手に仄かな温もりが重なった。
「キリトくん」
 アスナはそれ以上何も言わなかったが、温かな微笑みが「大丈夫だよ」と確かにこちらに伝えていた。
「……そうだな」
 ひとことだけ答え、ほっそりとした右手を握り返した。

***

「代表剣士殿、なぜそこまで頑なに日を延ばそうとするのですか! ここで暮らす人々のためにも、我々は一日でも早く王の座に就いて欲しいのです!」
 セントラル・カセドラル五十階、《人界統一会議》の会議場となっている大広間《霊光の大回廊》に、一人の整合騎士の声が響き渡った。こうして大声を出されること――ほとんどの場合俺が怒られている――は最近では慣れたものだったが、それでもその迫力に一瞬だけ体がピクリと反応してしまう。
 ……やっぱりこうなるよな……。
 騎士の言い分も解るのだが、今回ばかりは引き下がるわけにいかないと、俺もわずかに引いてしまった顔をぐいっと近付けた。
「わ、解ってるけどさ……。でも、やっぱりこれだけは譲れない」
「うぬぬぬぬ……」
 大柄の騎士――デュソルバート・シンセシス・セブンは、臙脂の眉を吊り上げ、低く唸りながら理由を求める視線をこちらへ向けている。
「……」
 さすがに圧に耐えかね、隣に座る栗色の髪を持つ少女をちらりと見ると、仕方ないなあ、とでも言いたげにヘイゼルの瞳が小さく苦笑し、そのまま眼前の騎士を見やった。
「ごめんなさい。わたしも、今回のことはキリトくんの意見に賛成……というか、キリトくんの意見がわたしの意見でもあるので」
「ア、アスナ様まで……」
 普段は俺の意見に賛成するばかりではないアスナにまで言われ、さすがに炎色の眉が下がる。
「し、しかし、それだけではやはり納得できませぬ! 理由は何なのですか!」
「前回も言ったけどさ、大事な日なんだ。向こうで……俺たちが来たリアルワールドとも違うんだけど、その世界からずっと続いてる、俺とアスナにとって大事な日」
 俺の声が張り詰めた空気に吸い込まれ、静寂だけが広間を支配する。
 前回の会議でも同じような展開になり、俺も騎士達も譲らぬ押し問答になった結果、結論は出ることなく会議終了の時間へ。今日の今日こそ決めなければ、それこそ強制的に日付を決められかねない。
 他の人から見れば、どうしてそこまでこだわるのかと首を傾げるのは解っている。けれど、俺たちにとってはどうしても妥協できない日なのだ。
「――どうして」
 凛とした艶やかな声が沈黙を破った。顔にかかるやや癖のある長い黒髪を指先で払いながら、二代目整合騎士団長のファナティオ・シンセシス・ツーは言葉を続ける。
「どうして代表剣士殿、副代表剣士殿がそんなに日付にこだわるのか……詳しいことは知らないけれど、今回はいいんじゃないかしら」
「ファナティオさん……」
 アスナがヘイゼルの瞳を見開き囁くと、ファナティオはいつもの騎士長としての凛とした顔ではなく、一児の母の顔へ変わった。
「当人たちにしか解らない特別なことって、やっぱりあると思うもの。婚礼の儀なんて、一生に一度の大切なものでしょう」
 彼女は前回の会議のとき、他用があり欠席していた。その場合でも、会議のレポートは整合騎士全員に回覧されるため、前回この件だけが先延ばしになっていたことも知っていたとは思う。でも、それにしてもあっさりすぎる。むしろ、この世界のことを考えるのであれば、彼女もデュソルバートのような意見を口にするのではないかと思っていたくらいだ。
 自分で主張してはいたものの、こうもあっさりだと「本当にいいのか?」という困惑が生まれる。
 すると、そんな俺の戸惑いを感じ取ったのか、騎士長は透き通った琥珀色の瞳をアスナから俺へと移し、普段比四割増しくらいの温かさを持って微笑んだ。
「私はね、幸せになって欲しいのよ。私の子――リーゼッタにも、ここの騎士たちにも。それから……代表殿たちにも」

***

 会議が終わると、いつものように一度カセドラルの三十階――ではなく、キリトはなぜか外の庭までアスナの手を引いてやって来た。アスナは不思議に思いながらも付いて行き、こうして並んで木製のベンチに腰掛けている。辺りには色とりどりの花々が咲き乱れ、まるで植物園にいるよう。深く息を吸えば、漂う芳香が鼻腔をくすぐった。
 昼間はよく太陽(ここではソルスと言うべきか)の光が当たる場所で、昼寝には最適なのだと以前キリトが言っていた。今はもう随分日が傾き夕刻。空は赤やオレンジ、紺色にグラデーションしていて、どこか切ない気持ちにもさせられる。
「は〜〜……」
 感傷的になりかけていると、空気を読まないキリトの盛大な溜息が聞こえた。上空を見上げながら脱力しているのを見て、アスナはくすりと笑う。
「おつかれさま。ね、みんな解ってくれたでしょ?」
「アスナとファナティオさんがいたからだよ。いなかったときは、こんなあっさりじゃなかったんだからな?」
「ふふ、ファナティオさんが言った瞬間、デュソルバートさんも黙っちゃったもんね。……でも、すごくロマンチックな人だと思うの」
「へ? ファナティオさんが?」
 目を丸くするキリトにこくりと頷くと、どこか納得できない様子で「そうかなあ〜」と腕を組んだ。
 ファナティオは一児の母だ。夫は、今は亡き初代整合騎士団長のベルクーリ・シンセシス・ワン。いまより遥かに緊迫した空気の中ではあったが、二人にもきっと特別な日、時間があったに違いない。
 大切なものは、いつになっても変わらず、常に自分の中に在り続ける。そのことをあの場にいた整合騎士の中で一番理解していたのは、きっと彼女だけ。キリトが「大事な日」と口にしたとき、ファナティオが僅かに目を瞠ったのをアスナは視界の隅で見た。そんな反応も、きっとそういった気持ちからくるものだったのだろう。
 そんなアスナの思考を遮るように、こほん、と咳払いが左隣から発せられた。
「ところでさ、その……」
 言いながら、キリトはごそごそと左ポケットを漁っている。けれどすぐに何かを取り出したかと思うと、アスナの左手をそっと掬い――――
「っ! キ、キリトくん、これ……」
「アスナ、結婚しよう」
 確かな意志を持った夜空のような瞳が、真っ直ぐにアスナを射抜く。
 アスナがもう一度自らの左手を見て、再び顔を上げたとき、夜空色がくにゃりとわずかに歪んだ。ぽろり――と雫が落ちる前に、指先がそれを受け止める。そんな些細なことにも、どきりと心臓が音を立てる。
「でも、どうして……。それに、だって、わたし……」
「うん、前に聞いたとき、同じものはいらないって言ってたけど、これは同じものじゃないだろ。まあ、色が違うだけでデザインはほぼ同じだけど。……それにさ」
 キリトが先程までの表情を少し崩すと、照れくさそうに小さく笑った。
「流れで結婚するみたいで、やっぱり嫌だったんだ。だから、こういうのはちゃんとしたかったと言いますか……」
 ぎゅっと左手が握られ、アスナは再度視線をそこへ落とした。浮遊城、現実世界にはあって、こちらでは一度も見ることがなかった、けれど大切なもの。再び同じ場所へ《それ》が嵌め込まれ、何かを取り戻したような、あるいは新しく得たような、不思議な気分になる。
 銀色の輪の中心に光るティアドロップ型のアクアマリン。それをじっと見つめていると再び嬉しさがこみ上げてきて、胸に溢れる感情は涙の雨に変わった。
「アスナ」
 問い掛けるキリトの声に、アスナは濡れた顔を上げ、左手薬指で輝く宝石にも勝る笑みを浮かべる。
「はい……っ! これからも、キリトくんの一番近くにいさせてください」
 ――今日のこと、これからのこと。どうか、いつまでも胸の中にありますように。
 人界の空に、一番星が光る。まるで誰かの願いに呼応するかのように、とくんと瞬く。
 重なった柔らかな温もりを受け止めながら、アスナは裡で祈り続けた。

end
2018/11/04 初出